グルーチョ

十二人の怒れる男のグルーチョのネタバレレビュー・内容・結末

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

この映画、脚本がすごいのはもちろんのことだがなによりカメラワークがすごい。あの狭い中を動き回る序盤のカメラワーク。カッティングの切れ味も抜群だと思う。

この映画が優れているのはこれだけ時代を経ても出てくるキャラクターたちがいまだに普遍性を保っているということ。偏見にまみれて主張などないくせにやたらと声がデカい男、とりあえずまわりを見て自分の主張を変える男、自分の都合しか考えていない男。自分を含め、心当たりのある奴らばかり。

印象的なシーンは数あれど一番心にグッとくるシーンは無罪側のヘンリー・フォンダに有罪側のマーティンバルサムが窓の外の雨を見ながらアメフトの思い出を語るシーン。お互いの意見は違えど、しかしヘンリーフォンダの勇気には感服しているのがとてもよくわかる場面でこれは対面で話しているからこそ可能な交流だよなぁ、と感動してしまう。いまやネットで双方の正義をぶつけ合い、その結果、分断が加速、憎悪がうずまいている世の中で対面で話すことの意義はこういうところにあるのではないか?と今日的な意味を読み取ってしまった。

さらにこの映画が興味深いのはこの時代に有害な男らしさ、マッチョイズムを批判的に描いている点で、その観点でみると最後まで有罪を貫き通した男は息子との不和が影響して(この不和の原因もおそらく息子へ男らしさを求めた結果)いたわけだけどそれだけではなくて彼が無実に入れるということは過去の自分の生き方を否定することでもあるのだと思った。自分を信じ、自分の意見を曲げないこと。そして息子との不和になったのは自分のせいではないと信じたい気持ち。それがかれに有罪を最後まで主張させた。

だから最後の彼が机に突っ伏してしまうシーンは明白なカタルシスではなく何か悲哀のようなものを感じる。それは変わる時代のなかで自分の生き方を変えられず取り残された今の中年たちの姿と重なる、というのは言いすぎだろうか?
グルーチョ

グルーチョ