くもすけ

天国への階段のくもすけのレビュー・感想・評価

天国への階段(1946年製作の映画)
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「映画の生体解剖」で紹介されていたやつ。マイケル・パウエルは「ピーピングトム」がえぐくて苦手で追っていなかったがこれは傑作。原題は生き死にの問題、と味気なく、米公開題をもってきた邦題のほうがいい。

全編にわたってダイアログがとち狂っていて楽しい。冒頭の炎上する機内から管制官にむかって最後の通信をするパイロットが、支離滅裂の心中をさらけ出してはじまるがそのどれもが見事に意味不明。というのもこの人(デイヴィッドニーヴン)は帰国したら華々しくデビューするつもりの詩人だったのだ(これで説明になっているのか)。

チェスをしながら画面の奥に焦点があった広間のシーンは「ラスメニーナス」を彷彿とさせめまいを覚える。広間では米兵が「真夏の夜の夢」のべらんめえな舞台稽古に興じ、チェスごしにパイロットへの問診開始。頭痛とフライドオニオンの匂いが結びついていて、脳が原因だとみるや医師はパイロットを横向きにして視覚に異常がないかを確かめるテストをする。何が見えると問われたパイロットは、稽古に勤しむ淑女たちの脚線美に目を奪われている。

現実・幻想の境目は最後まで宙吊りにされていて、最後にピーターの持病くも膜下出血の手術から無事生還したあと、一体どこからが現実だったのかよくわからない。パウエルはハンガリー人の幻視についての手記や義理の兄弟(形成外科医)の意見を参照して脚本をかいたようで、映画まるごとあつかった研究書も出ているようだ。

ピーターと交信することになるのはラジオオペレーターのジューン(肩章から1年は滞在しているらしい)。このアメリカ人女性が勤務する米国空軍イギリス海岸基地には、大型カメラ・オブスクラが設置されている。天国のデザインもすごいが、この外界を睥睨するアイディアがあちこちにあふれていて、監視者や別世界への想像が膨らむ。ちなみにあくまで「別世界」であって「天国」とは呼ばれない。(ただ一箇所ブレイク前のリチャード・アッテンボローが天上待合ロビーのシーンでその名を口にする「Heaven, isnt it?」

目玉の天国の階段(通称エセル。最後の脳外科シーンで器具に刻印あり)はロンドン旅客運輸公社の協力で3ヶ月かけて作られた。
階段に居並ぶ石像のパウエル手書きの選定リストには50人ほどの名前。アレクサンダー大王、プラトン、ベートーヴェンなど。45年当時彼らは神経障害だと思われていた(劇中出てくるジョンバニヤンがそうだったように)。件のシーンで71から様々な弁護人を提案する候補として挙げられているので、死因とのつながりを強調したかったのだろう。もっともこのシーンで71はそのまま階段(実は動いている)の先まで連れて行こうと時間稼ぎをしていただけなのだが。

いったいに厳粛であるはずの死を弄ぶ姿勢がどちらの側にもみうけられ、出廷までのアディショナルタイムに証拠用の涙を採取しておこう、とか小細工めいた企みが当事者を置き去りにしたゲームのようにみえておかしい。一番可哀想なのは、この弁護のために死んじゃったリーヴだろうか。これだから学究肌は。

後半、法廷シーンで、なぜか米英をめぐる論争にすり替わっていくが、これには製作上理由があるとの説。2年前の44年パウエルが製作した「カンタベリー物語」のときに政府から米英関係を良好化させるよう提言があった。というのは、当時3年にわたる爆撃、配給生活で疲弊していたイギリス国民は、「遅れて」やってきたアメリカ人がoverpaid, oversexed, over here状態にあることに苛立っていたからだ。
まあそう言われても、これで両国民の感情がなだめられるのかはよくわからない。ピーターが地上に戻れたのは71言うところの「ばかげた天気」で行方を見失ったからだが、裁判の争点は彼が地上に戻るにふさわしいかを、その環境から論じる。
米国独立戦争の最初のアメリカ人犠牲者である検察官アブラハムファーラン(生前は教師)は、大英帝国を貶めるために英国植民地出身者や反帝国主義を掲げる小国出身者たちを裁判の陪審員に選ぶ。リーヴ医師の異議で偏った人選を米人に改めるのだが、単に米国風の名前にかわっただけ。ファーランは植民地で死んだ人々が抱く宗主国への糾弾を期待したのだが、自由を謳うファーランにリーヴが反論するのはその自由を行使するための法が整備されているのかというもので、これはそのままアメリカにも跳ね返ってくる。
結局被告の男女がお互いを死ぬほど愛しているのかよという話になり、裁判長がウォルタースコットを引用して閉幕する。けだし「愛がすべて」