黒苺ちゃん

海をみるの黒苺ちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

海をみる(1996年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

太平洋の小島で、サーシャは生後10ヶ月の幼い娘とともに暮らしている。夫はパリに出張していて不在で、連絡も取れない。ある日、バックパッカーの女、タチアナが訪ねてきて、庭にテントを張って寝泊まりするようになる。自由に生きる彼女に昔の自分の面影を見たサーシャは、その夜から性的に奔放になり、自慰や浮気をはじめる。一方、中絶経験のあるタチアナはサーシャを憎む。ある朝、夫が出張から帰ってくると、娘の姿はなく、サーシャはテントのなかで殺されていた。タチアナは誘拐した娘を抱き、船で島を離れるのだった。

この物語のテーマは、母性とセックスではないか。それはふたつのコントラストによって象徴されていると思われる。ひとつは、母親とバックパッカーの女だ。サーシャには子どもがいるが、夫の不在で性的には満たされていない。一方のタチアナは性的には自由だが、子どもを中絶したことに苦しんでいる。すなわち、性的パートナーの不在によって生を謳歌できないサーシャと、子どもの喪失によって生を謳歌できないタチアナの対比である。物語は、タチアナの訪問によってサーシャが母親としても、性的な主体としても生を回復していく様子を描いている。

そのことは、もうひとつのコントラストである青と赤の色彩によって強調されていると思われる。序盤のサーシャに見られる抑圧的なイメージは青の色調に重ねられている。彼女の家は外観も内装も青いし、彼女の服装も(最初は)寒色を基調にしている。しかし、タチアナを招き入れてから、彼女はずっと赤い服を身にまとっている。家では赤いワンピースを身につけて子守りをし、海辺では赤い水着で男を誘惑する。青が抑圧的な生を意味するなら、赤は躍動的な生を示唆するのではないだろうか*。

しかし、タチアナ(青い服を着ている)にとってそれは嫉妬と憎悪の対象だ。サーシャが男と遊ぶとき、タチアナは墓石にすがりついて泣いている。彼女は旅の理由を「子守りに飽きたから」だと言うが、それは嘘だ。彼女は何らかの理由で子どもを中絶し、そのことに苦しんでいる。彼女にとって、性的な自由は子どもを持つこと以上の価値を持たない。それは子どもを育てながら性生活をも謳歌するサーシャとは対称的である。したがって、タチアナがサーシャを殺害したのは、サーシャが持つそのふたつの価値を破壊するためであると思われる。子どもを誘拐することで母性を剥奪し、性器をハサミで切り取ることで女性の性的魅力を否定するのだ。

ラストシーンにおいてタチアナは赤いワンピースを着ている。サーシャから奪い取った性的な自由と母性を文字通り身につけ、生を謳歌する準備を整えたようだ。しかし、その腕に抱かれる子どもは青い服を着ていて、いつまでも泣き止まない。空は青く、海も青い。彼女は本当に生を回復することができたのか――否定的な余韻を残して、映画は終わる。**


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*しかし、この映画で最も「赤い」のはタチアナのテントである。彼女は決して躍動的な生を謳歌していない。むしろ、サーシャの死体が放置されるのがこのテントであるように、それは死を想像させる。なぜこのテントは赤いのだろうか。さらに、タチアナと赤色の特徴的な関係はもうひとつある。スーパーで生肉売り場を通る場面だ。ずらりと並ぶ赤い肉は、死んだ胎児を連想させる(実際に、この次に彼女が目を留めるのは赤ちゃん用品の売り場である)。よくわからないけど、タチアナにとって赤色は(少なくともサーシャを殺すまでは)死を連想させる血の色だったのだろうか。

**ところで、作中にほとんど出てこない夫は何をしているんだろうか。パリでは消息を絶ち(浮気をしていたんじゃないかと思う)、ついに帰宅したら妻は殺され娘はさらわれている。物語の進行において、夫の果たす貢献はなにもない。むしろ、彼が毎晩家に帰っていれば事件は起こらなかったかもしれない。また、母親とセックスをする男も、顔がほとんど写らず声も出さない没個性的な存在として(意志を持たない動物のように)描かれていた。さらに、タチアナの中絶の理由は語られないが、その原因は男性にあったかもしれない(タチアナとサーシャが最初の夜にした会話の話題がレイプだった。このときのタチアナは目が泳いだり皿を舐め回したり、明らかに動揺している)。この映画において男性は、無責任だが女性に決定的な影響を及ぼす否定的な存在として描かれているように思う。
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