井出

バルタザールどこへ行くの井出のネタバレレビュー・内容・結末

バルタザールどこへ行く(1964年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

描きすぎないのに、どうしてこんなに心が掴まれるんだろう。ブレッソンの映画は不思議な引力を持っている。おそらく彼の映画の解釈は人によって違う。つまり、彼は、一人一人に異なるメッセージを送る。そして登場人物の手足は我々の手足。これが、心を掴む、引力なのかもしれない。だから、以下は単なる私見です。いつものことだけど。
私は、本作は近現代を示しているように思う。神が死に、言葉が失われ、金がこの世を支配する。神への信仰ではなく、資本主義と国家による契約によって、論理が成立する、「人生は市場だ 言葉など必要ない」というように。働けない者(病気の娘)は死に、カトリック(父)は死に、子どもの感情(若者の表情)も死んでいく。そんな様を、冷めた目で直視していたのがブレッソンであり、動物たちであったのだと思う。
その時代に人はどうだったのか。それは無関心で無感情だ。皆が救いのない時代に絶望し、見て見ぬふりをした。蹄鉄をつけられ、荷車を引かされ、言うことを聞かなければ叩かれ、我々には自由がない、資本主義によって。プロテスタンティズム、ピューリタニズムによって、世の中は窮屈になった。感情などない方がましだ。最後の羊たちのように、沈黙していた方がましなのだ。そこに生きる若者は、非行をする、身を貶める。この映画を見ていれば、それが必然だとしか思えない。どうしてこの世に愛着がもてるだろう。守るべきものがあると思うだろう。ブレッソンは若者を叱責したいと思いつつも、一方で仕方のないことだと考えているのではないか、そう解釈せざるをえない。問題は個人にあるのではない。
私たちはそれに反論ができるだろうか。人の良心を信じることができるだろうか。アルノルドがワインの瓶を持って歩いていくのを見て、恐怖しなかった者はいただろうか。あのシーンを見ると、自分は信じていなかったと気づきハッとした。私たちが思うほど彼は異常者ではないのだ。そして皮肉にもアルノルドは、莫大な遺産を手に入れる。途端にバルタザールに優しくなる。このことで、動物を殴ることに嫌悪する観客をおちょくる。ブレッソンはアルノルドで我々を弄ぶのである。ジャックがマリーから去っていくシーンもそうか。

安全な場所はないのか。バルタザールは、サーカスの動物たちに聞いて回るが、「こっちとそっち、どっちが辛いかな」と言わんばかりに、目で語ってくる。どこにも安全な場所などない。だからバルタザールの死を、悲劇と思う者は少ないに違いない。

夜に大音量でジャズを流し、酒を飲み、踊り狂う若者たち。ブレッソンは夜に爆竹を鳴らすことに怒っているだけではない、それを注意しない社会にも怒っているのはではないか。ただ一方でブレッソンは、政府がなければアナーキーもないとも言っているような気もするのが不思議である。

マリーは自ら身を貶める。「わずかの間に 全て失われてしまった」なぜジャックと行かないのか、なぜ自ら堕落していくのか。自暴自棄か、バルタザールのためか。なぜ、彼女は夢を見続けることができないのか。きっとブレッソンは、現代人を見てそう思うのだ。彼も現代人であると知りながら。彼女を穢すのは、社会なのではないかと。

ほか、アクションペインティングやら、無意識とか言う知識人(自分も含め)嫌悪している。標柱はその地を、電信柱はそこに住む人々を象徴している。ラジオからサザエさんぽい曲が流れる。

とまあこんな感じ。この作品はシューベルトとバルタザールの泣き声のように、切なく、悲哀感たっぷりのロマンチックで、それでいて現実的である。それが最も素晴らしいところ。全て私見ですけど。
井出

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