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ガッジョ・ディーロのhasseのネタバレレビュー・内容・結末

ガッジョ・ディーロ(1997年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

演出4
演技4
脚本4
撮影4
音楽5
技術4
好み5
インスピレーション5

ロマの人々を描いた映画はあまり多くない。私はクストリッツァ監督の数作品と、トニー・ガトリフ監督の名前だけしか知らない。

そもそも「ロマ」とは、かつてインドからヨーロッパへ集団移動してきた先祖を持つ人々の一部であって全体をさす言葉ではない。ロマニ語を話し「ロマ」のアイデンティティを持つ人々と、別の言語を話し別の民としてのアイデンティティを持つ人々が、かつては「ジプシー」という蔑称で括られ、ポリコレを経て、今では「ロマ」として大義で括られてしまっている。

なので、この映画を観てヨーロッパ中、あるいは世界中に点在して暮らしている「流浪の民」全体についての理解が深まった、と誤認してはならない、と自戒しておく。あくまでこの映画は、ルーマニアの田舎に住むロマの人々を描いたものである、と。

『ガッジョ・ディーロ』(愚かな余所者)という呼び名は、村人たちの主人公に対する親しみの裏返しであると同時に、ロマの人々に溶け込んだと浸っていた彼に対する皮肉でもあるような気がする。
父親の形見である録音テープに残された、幻の歌姫「ノラ・ルカ」の歌声を求めてロマの村にやってきた主人公は、ロマへの幻想で凝り固まっていた。旅人であった父親への憧憬と喪失感が、父親が虜になっていたロマの音楽への幻想度を高めていたのではないだろうか。きっと子供の頃からすりきれるほどテープを聴いたのだろう、彼はサビーナに、身体全身にノラ・ルカの音楽がいるんだ、と語ってみせる。
だが、ロマの生活に溶け込むにつれ、彼は身の回りに遍在する「生きた音楽」を体験する。聴取、記録、保管、分析され、学問や芸術の対象となる音楽ではなく、ロマの日々の生活や冠婚葬祭を彩る「生きた音楽」が。
ルーマニア人たちによる放火で村人たちが住居を失う事件により、我に返ったように父親の録音テープを破壊し埋葬する主人公の姿を、そっと微笑みながら見るサビーナの視線が優しい。いわゆる「マイノリティを理解したつもりでいたマジョリティ」にたいし、彼女は侮蔑することも罵ることもできる。その権利がある。「勝手な幻想抱いてここに来たみたいだけど、これが私たちの現実なの。差別され、明日には家や命があるかもわからない。わかったでしょ? さぁ、さっさと帰りなさい」と言う権利がある。しかし、サビーナは優しく微笑む。このラストが素晴らしい。

村人たちと余所者、マイノリティとマジョリティという対立的な立場を超えて、主人公とサビーナ、また村人たちはつながり合っている。特に、ルーマニアの酒場でじいさん含めて酔っ払ったショットが最高。
じいさんは逮捕された息子を、サビーナはかつての夫を、主人公は父親を、というふうに皆、大切な者の喪失で沸き上がる孤独感を共有する。言葉が通じなくても音楽と踊りによって。

サビーナの野性的なセクシーさ、強烈で素敵。じいさんがやらせてくれぇと哀願するのは悲哀と滑稽さが混ざり合ってなんとも言えない気持ちになった。
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