ケーティー

道のケーティーのレビュー・感想・評価

(1954年製作の映画)
4.8
シンプルだが、普遍的で、外連味もあり、無駄のない天才的な映画


一言で言えば、人身売買の話(そう書くと嫌悪感を抱く人もいるかもしれないが、奉公も日本でごく最近まであったし、必ずしも特別な話ではない)。しかし、そこに何ともいえない普遍性がある。

冒頭からうまい。女性が男に売られるところから話がスタートするが、普通ならこの女の子はこんな子ですよ(例えば、頭は弱いけどいい子など)という説明をしがちなところを、いきなり家族との別離から始め、どうなってしまうんだろうと観客に思わせる。ここでの家族の虚実ない交ぜの泣き叫ぶシーンもいい。

この映画のうまさは、とにかく話がシンプルで、無駄がないことかまず第一にある。例えば、本作のようにある種トリッキーな設定の場合、設定をつくりすぎると、アニメのような異世界の話になってしまう。しかし、本作は話を極限までシンプルにすることで、この話はどうなってしまうんだろうと思わせつつ、その幹の太い描写に、観ている私たちは、自分たちと何か共通点があるのではと考えずにはいられないのだ。このあたりは、人生という意味を想起させる“道”というタイトルのつけ方もうまい。何のメタファーだろうと思わず考えてしまう。

そして、シンプルなあらすじの中でも、旅芸人という設定や途中の祭りやシスターの登場などシーンの色彩、人間ドラマを見せるシーンが中心ながら随所に芸を披露するエンタメシーンや喧嘩のアクションシーンを入れるバランスのよさなど外連味もある。このあたりのバランスのとり方や、シーンの無駄のなさはフェリーニ監督らの天賦の才をひたすら感じる。

さて、先に本作には何か普遍的なものを感じずにはいられないと述べたが、私はこの作品は、夢(幸せ)のために、何かを犠牲にした人と、夢(好きな人)のために、自分を犠牲にした人の物語だと感じた。たしかに、現実の社会の人々は大きくこの二者に分けることができる(もちろん、恋愛もそうだろう。それは映画「愛がなんだ」が証明したように、その役割はその人固定ではなく、状況や相手によってその人の役割が変わることもある)。すごく世俗的な例かもしれないが、最近読んだ鈴木おさむさんの小説「芸人交換日記」(映画版は一部設定を変えて、「ボクたちの交換日記」)はまさしく、漫才コンビをこの二者に分けて描いていた。だから、何かこの作品の男性を観て、切なさを感じ、責めようという気持ちが自然とわかなかったのは、その本質に徒には責められないものがあったからだろう。論理的に考えれば、本作の男性は責められて当然の存在である。しかし、それを責めようという気持ちにならなかったのは、この作品の男性ほどひどいことはしたことがなくとも、その本質に、生きる上で誰もが大なり小なり経験するものがあるからではないだろうか。ここでは、言うならば、人を捨てて幸せを得るわけであるが、何も人に限らずとも、人生は選択であり、誰もが何かを選ぶと同時に何かを捨てて生きている。だから、本質的には誰もがこの映画の男に通じる経験をしていないはずがないのだ。そんなことを思わせるのも、ラストの海岸の描写しかり、この作品がシンプルな描写に拘っているからだろう。例えば、もしここで、男性がベラベラある種リアリスティックに私的な感傷を述べたら、お前それは違うだろとツッコミをしてしまって、本作の海辺と音楽から受ける感動はなかっただろう。映画の描写で、しゃべらせない上手さをよく感じることがあるが、そこにさらに情景と音楽をもってきて、テーマを広くもたせることができる、そのある種の間の中で観客に考えさせることができるのだと、よくわかった。また、本作もそうだが、何か複雑な心情を抱えつつ、どこか救われたい、そして、言葉では表せない愛を登場人物がもっているとき、海をラストでパーンと見せれば伝わるということが改めてよくわかった。(海をラストで使う手はドラマでも映画でもよくある)しかし、その手法のうまさを越えて、監督が現代の人は誰もが孤独を抱えて生きている、しかし、そこにはたしかに愛があるという温かな目線でラストを演出しているのではないかと感じたのは私の思い過ごしだろうか。

最後に、本作は、男に惹かれていく女性の心情と男性の不器用さの描写がうまいことを記しておく。初めこの映画を観たあとに、女性が男性に惹かれていく点に説得力があり、自然と理解できるのはなぜだろうと思った。例えば、新海誠監督の「君の名は。」や「言の葉の庭」は相手を好きになる過程が描かれておらずそこが納得いかなかったが、翻って本作もいわゆる恋愛的なシーン(例えば、男性が女性を助けて、女性が惚れるなど)があるわけではないのに、女性が男性に惚れることに違和感がないのだ。それはなぜだろうと思ったのだが、冷静に改めて考えていくと、実は極めてロジカルに好きになる理由が本作では積み重ねられている。

作品の冒頭で、家族は娘を愛し、同情や憐れみを感じているように見せかけて、無駄飯食いの食いぶちが減ることを匂わせている。つまり、主人公の女性は、どこか家族に蔑まれて生きてきたのだ。そんな女性に、男性は、仕事を教え、生きがいを与える。彼は極めて粗野で乱暴だが、彼女を見捨てたりはしない。さらには、男に二回娘を売りつける家族と違って、男には自ら人生を切り開くちからがある。そして、実際、女性が男性と芸を成功させた日、女性は頭が弱く、メニューを何でも頼むが、それを否定することもせず、仲間にも女房として紹介する。このように、綿密に仕組みが組み立てられているのだが、そのことに気づかせず、エモーショナルに納得させるのがすごい。また、このあとの女性が男性をどう惹かれているのかの描写も、同じところで待っていたり、姉とも同じことをしてたのかと聞いたりとうまい。また、女性の生きがいや男性が女性を認めていく描写をラッパをキーの小道具として使い見せていくところも実にうまい。このラッパは、特に終盤で重要な役割を果たす。