青山祐介

悪魔の陽の下にの青山祐介のレビュー・感想・評価

悪魔の陽の下に(1987年製作の映画)
4.5
『われ平安を汝らに遺す、わが平安を汝らに與ふ。わが與ふるは世の與ふる如くならず、なんぢら心を騒がすな、また懼るな。』ヨハネによる福音書14-27(文語訳)

モーリス・ピアラ「悪魔の陽の下に(SOUS LE SOLEIL DE SATAN)」1987年 フランス映画
原作:ジョルジュ・ベルナノス (ベルナノスの処女長編小説1926年)
映画作家モーリス・ピアラ -この凶暴で、ひとを寄せつけようとしない監督の、不安定で、特異な構造をもつ、難解な作品「悪魔の陽の下に」は、私たちに何を告げ、いったい何処に連れて行こうとするのか?私たちはピアラと同じ地平を視野に入れることができるのであろうか?
モーリス・ピアラとは誰なのであろうか?映画のなかでピアラはカンパーニュの首席司祭ムヌ=スグレの役でその姿を見せている。《この人物がモーリス・ピアラなのだ!》ムシェットの叫びが聞こえてくるようだ…『あたしはあんたを憎んでいる!』。ピアラの映像作品に出会った時に受けた戦慄と、生じた疑問が、私の中で大きく膨れあがった。ピアラを理解することができるのか、その映像世界を私は自身の言葉で表現することができるのだろうか、その強い欲望を抑えることができなくなった。
どこからはじめようか?ピアラの側から迫るのか、またはベルナノスの原作を熟読し、そこから理解の糸口を照らし出してもらい、映像世界の中に入り込んでいくのか。ベルナノスが描く心象風景と魂の言葉は映画作家ならば誰しも映像化してみたくなるような美しさをもっている。精神の迷宮の入口に立ち、恐れにすくむような、めまいを覚える。それを映像で表現するとどうなるのか、まず原作の世界を追体験し、映画との違いからアプローチを試みるべきなのだろう。ピアラが原作から何を省き、何を変え、何を加えたのか。また、映画編集の段階でかなりの部分がカットされているが、ピアラは、何をカットし、何を残したのか?原作から剥ぎ取ったものが、おそらくは最初の手がかりとなるのであろう。しかし、わたしのもつ知識ではどうしようもない。原作と映画のすべてを比較することは私の能力では無理であろう。
ピアラがベルナノスから、何を抜き出し、何を捨てかは重要なことである。原作の第1部「絶望の誘惑」、ドニサンと悪魔との邂逅とムシェットとの出会いの場面を比較することによって、かろうじてピアラとベルナノスに接近することができる。序曲である「ムシェットの物語」は殆どが省略され最終場面だけが描かれる。ムシェットは「もっと深い、もっとも内的な叫び ― あたかもおのれ自身を捧げようとするかのような叫びをもって ― 悪魔を」呼ぶ。
第2部「ランブルの聖者」は、第1部「絶望の誘惑」との時間的な枠が取り払われて、ひとつの凝縮された物語となっている。
悪魔が言う ― 『さっきおまえ自身を見たように、おまえは見るのだ。おまえ自身を見たのと同じように、おまえは他の人間を見るようになる。』
悪魔は言う ― 『今日おまえに一つの恵みが与えられたのだ。』
ドニサン神父の問い ―『なぜ、わたしを試みるのか?(マタイによる福音書4.1-11)』
ランブルの主任司祭 ―『あいつがいる!』奇跡はランブルの聖者の生命と引き換えにした悪魔の勝利の証しなのか?神の御心なのか?
原作の最後は「ヨハネによる福音書14章27節」の言葉として、次のように締め括られる。
『おまえはわたしの平安を欲しがっていたな。さあ、それを取りに来い!』ヨハネによる福音書14-27(山崎庸一郎訳、春秋社1999年)
青山祐介

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