ニューランド

エリソーのニューランドのレビュー・感想・評価

エリソー(1928年製作の映画)
3.9

☑️『エリソー』(3.9p)及び『アラヴェルディの祭』(3.1p)▶️▶️
本作は、今度のジョージア映画祭で唯一観たかった映画の、久しく行っていない岩波ホールの状況チェックの為に選んだが、その数日後肝心の作品に(二本立ての後の方だが、最初のに1分でも過ぎるとダメらしく) 遅れそうで諦め、唯一のジョージア特集鑑賞作となった。
30年振りに封切映画ベストテンを選び始めたが、その前の並びの最後の年に選んだ作品だ(確か、キネ旬の選考対象が10年ぶりに変わって、以前トップ辺に1度選んだ『エル』『エル⋅トポ』辺りが又対象に上がってきて、困り翌年もそんな風だったので遠ざかり、自然あまり新作を見なくなった)。
さて30数年振りの本作、やはり秀作の見本のような作で、横ズラシや退きサイズ⋅90°⋅俯瞰め退き切替え⋅人々囲い込み運動、のショット変で注目対象を隠すか埋もれさすカッティング。手拍子⋅その対象の(分解)動き⋅状況の細かく目まぐるしいモンタージュ。カメラの移動自体は長いのは少も、人への縦移動前後や(人も前のめりになって)ピントの動かし、フォロー自体は長くはなくも逆方向やフィクスめで次々アウトしてく鋭さ、モンタージュに絡めての回る視界や回るフォローの入れ込み、細かく鋭くシャープなのが満載⋅かつ節度。自然の囲み⋅天上性や⋅村人各々が譲らぬ名人の舞踏に関し、フィルム速度の操りや各人の舞踏の形と独自のリズムの増え⋅重層的な厚み。大Lでの自然⋅集落⋅(移動してく)果てない人の列から始まり、キャラクターの色分け(3~4人の縦図と横図⋅各の切取り)、崖地の家並⋅人の密集と列の組立られ方再び、海千山千らとの司令官やコサックらとの交渉の形、変化してく⋅雲や山の威風と流れ。それらが時に、複数場面の交互続きや、一場面も細かく多彩で純な力の漲り。実に細かく、かつ冴えた効果⋅筆力の配置は、内容の⋅苦渋と毅然とした屈しない誇りの総体の重々しさを、現実に生き続ける溌剌としたものの絶えない息づかいを伝えている。
15Cツァー体制は、対トルコを見据えての、ジョージアの山岳の村をコサックの拠点(チェチェン人も?)とすべく、住民を移住させるべく、銃の摘発や、(副村長を率いれての)署名の偽造、などで強引に村々の住居を受渡させてく。(信仰面では相容れない)隣村の男が、村長の娘との仲⋅芝地を提供の恩返しで、司令官の特令を得るも、既に村を明け渡して離れ出てて、遅し。住居の火災や⋅踊る事での意地の、意思表示等、村長を中心とした抵抗姿勢の表示が清々しい(娘も)し、単なるレジスタンスでないものがある。
---------------------------------------------------
『アラヴェルディの森』。 その血筋の作家なのだろうか、集団舞踏の祭礼的儀式を追った、30年数年後の作。街ぐるみ列をなして、教会と城塞の地へ向かい⋅着き、夜を明かして踊り尽くし、明るくなっての翌日も、名手らは踊り続け、待ってたのか追い付いたのか、観光客もそれを満喫し。と言いたいところだが、踊り手同士、踊り手と観光客、の間には必ずしも同調しない違和があり続ける。しかもそれを語る帯同の記者なのか、その役の人間の、不躾でアジテイトもするような、不機嫌そうな顔つきや大胆な行動が、かなりのウエイトで作品中で捉え続けられる。不思議で力強い作で、暗喩云々を越えて存在してる。
トーキーに変わって、安定して、忙しなさはなく、内からの360°フォローパン長くや、視界の揺れ⋅うごめきといった、荒く抽象的なカットもあるけれど、基本しっかりした客観描写と象徴性で、ゆったりめに移動とカット⋅俯瞰や退きのダイナミズムを入れて組み合わせてゆく。

ニューランド

ニューランド