ーcoyolyー

ボルベール <帰郷>のーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

ボルベール <帰郷>(2006年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

ありがとうペドロ・アルモドバル!「ボルベール〈帰郷〉」を観たらすっかり「ラブ・アクチュアリー」で食らった疎外感をデトックスされて私の居場所はここ!私の居場所!落ち着くってなりました。オープニングの登場人物のファッションからして落ち着いたよね、私よくあんなの(シビラ、ホコモモラ系)着てたよね、いつから着なくなったんだろうな、と思いつつペネロペ・クルスのボッサボサの黒髪と胸周りと腰周り(だけ)に自分見出してたよね、いやこんなホールド感ない格好して歩いてると胸が千切れそうで痛くなんない?って思いながら(これは最後までずっとそう思ってて気になってた、痛くない?痛いよね?ぜってえ痛えよ!って)。
一見わがままで気が強そうな印象を周囲に与えつつ、その実、何も言わずに自分の、周囲の、世界の不条理を一手に引き受けて黙って背負って自分を押し殺して全てに馴染めず一人で諦念からくる笑みを浮かべて社会の底辺や片隅でその場に似合わず浮いているのに黙々と頑張って生きようとしている人がキャラクターとして出てくると、もう私はその人と一心同体で物語に没入してしまうので、アルモドバルに居場所を作ってもらえてものすごく安心した。家に、学校に、社会に居場所がなくても映画に、芸術作品の中に居場所を作ってもらえたので何とかここまで生きてこられた。
今回はアルモドバルがペネロペ・クルスにそれを託してますが、「パリ、テキサス」のナスターシャ・キンスキーや「俺たちに明日はない」のフェイ・ダナウェイも同じ役割です。健全な社会に対して倦んだ目でそこにいて自分の重荷の全てを沈黙の中に隠して妙に倦んだ色気が隠し切れなくなって出てしまっている人にどうしようもなく自分を投影してしまう。あれは「ヴァージン・スーサイズ」のリスボン家の五人姉妹が生き延びてしまった場合の姿とも言えるんですけど「ラブ・アクチュアリー」の世界観からは危険すぎて最初に排除されてしまう人でもありますね。

主人公の娘に事件が起こった時、なぜ私は娘ではなくてペネロペ・クルスの側に居続けたんだろうと、こういう場合、自分は娘側じゃないのか?でも心はペネロペから離れないんで不思議に思ってたんです。でもそのままクライマックスにきて主要人物がネタバラシした時に、「ああ」と。心が離れなかったのは大変正しかったんだなと。ネタバラシされたらペネロペが思ってた以上に私そのままの境遇だったので、それをちゃんとそうやってペネロペ・クルスは演じてたんだな、と感服しました。あと私もおばさんっ子として育ったので、そういう時でもおばさんはペネロペの味方になってたのが嬉しかった。

自分の子供を持つことを考えた時、自分の子供が性暴力被害者になったとしたらそれを知った瞬間に私はその子に寄り添えるしその子のためなら何をしてでも戦えるけど、自分の子供が性暴力加害者になったとしたら、自分がどう振る舞えばいいのか全くわからないし見えないし耐えられない、と思った。そしてその子供がもし知的障害者だったりすると理屈が通用せずに加害を重ねるかもしれない、と思ったら、私は子供を産み育てるのは無理だ、絶対に無理だ、という結論に達した。そんなことを思い出す映画でした。宝物がまた一つ増えました。ありがとうアルモドバル!

私は履修漏れの映画が多いので今片っ端から名前知ってるけど未履修の映画を見かけたら履修する、という修行に励んでいるのですけど、知ってる顔のたまたま観てなかっただけの映画にこのタイミングで触れると大変に安堵しました。私の居場所!ここは私の居場所!居場所があるってこんなに楽なんて!そしてキラキラしたリア充の恋愛にこんなに疲れてたなんて…ペネロペ・クルスの胸の柔らかさからして自前だろうにその割にはなんであんなに手足の細長いのか不可思議な念を抱きつつよく知ってる場所のにおいにほっとしたよアルモドバルありがとう…胸元からハンカチ取り出した時、超わかるって思った、私もノーガードだと袋田の滝みたいに汗がものすごい勢いで流れてすぐあせもできるからあそこにああやって夏場はハンカチ挟んでる、思わず一緒に取り出してしまった。
ーcoyolyー

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