河

密告の河のレビュー・感想・評価

密告(1943年製作の映画)
4.0
ドイツ表現主義映画の形式(鏡、影、追い込まれた時に傾く画面など)と主題を引き継いだフランス映画。その中でも特にフリッツラングの『M』を発展させたような映画だと感じた。戦時中にフランスを占領していたナチスドイツの資本で作られた映画らしい。サスペンス映画としてもめちゃくちゃに面白い。

電灯とその発する熱が中心的なモチーフとなっている。普段は人を照らす、善の面だけを見せる電灯が揺らされることによって、その人に光の当たらない状態、影に包まれた悪の面を見せるようになる。そして、揺れた電灯を止めようと触るとその電灯が熱を帯びていることに気づく。

小さな町で、カラスという存在が主人公である医師たちの不正や不倫を密告する手紙を市民たちに送っていく。その手紙は町の人々を照らしていた電灯を揺らし、人々の噂話と共に町が熱を帯び始める。そして、町の人々は無実の女性を根拠なく糾弾し始める。

子供たちが町の大人たちとは別の世界を形作って存在しているような描かれ方になっている。町の人々の考えていることはある程度描かれるのに対して、子供たちの考えていることは全く描かれず、ある種不気味な存在となっている。その子供たちの世界へも、大人の噂話をこぼれ聞いたり、落ちた手紙を拾うことによってその熱は広がっていく。そして、他人を糾弾する大人たちに対して子供たちは自身を殺そうとする。

『M』での盲目の男含む裏社会の人々は、ここでは事故によって医師の恋人である障害を負った女性と対応し、表社会の人々は医師に対応する。盲目の男は見ることができなず、その男を含む裏社会の人々も夜に行動するからこそ光の元にある街を見ることができない。その代わりに街の音を聞くことができるからこそ犯人がわかる。それに対して表社会の人々は見ることしかできないために犯人が見つけ出せない。
医師は理性によって現状を把握しようとするが、理性が光によって照らされたものだとしたら、電灯が揺れている時代にはその理性では状況を見ることができない。それに対して、恋人の女性は障害により外に出ることができない、光の元にある町を見れないからこそ状況を見ることができる。さらに、町の人々と違い光の元にないために熱も出ない(何度も熱が出たフリをする)。
そして、医師はその女性のその障害の補助のための靴を見るまで、その女性が障害を負っていたことすら気づかない。医師はその女性に答えを求めるも、その女性もその電灯の揺れた社会への対処を知らない(「沈静を私は与えられない」)

悪である大きな存在が善であるはずの人間を操っている、そしてそのような存在は身近に潜んでいるというある種陰謀論的な予感がドイツ表現主義映画の中心にはあるように感じる。その存在はムルナウにとってのタルチュフであり、フリッツラングにとってのドクトルマブゼである。

その中でも、フリッツラングのサイレント期の映画は特に善と悪の二項対立が強調されていた。それに対して、『M』は黒幕(実際黒幕だったのかはわからない)である殺人犯を陳腐化、人間化することによって、それまで描いてきた善と悪の二項対立、悪である大きな存在という認識から脱した映画のように思う。その中で悪は別の独立した存在ではなく、市民、街の中に浸透しきっている。

映画は、ドクトルマブゼのような風貌の精神科医がカラスであり、カラスの手紙によって自殺した男の母親がそれを知り息子の仇として殺して終わる。ラストショットではその母親が真っ黒な服に身を包んで去っていく姿が映されるが、その姿は悪に飲み込まれた姿のように見える。
その悪に飲み込まれて去っていく姿は、町の人々の今ある世界がその闇の中へと向かっていく予感のように感じられる。そして、その町の人々が向かっていく闇の中の世界は子供たちの存在する世界と同じく不気味な予感に溢れており、大人になることが理性を得ていく過程だとすれば、その世界へと向かっていくことは理性が失われていくことと対応する。
理性を象徴するような存在である医師が最初は毛嫌いしていた子供たちに慣れるようになるのは、その電灯の揺れた社会を見ることができるようになったからのように思う。

同時に、ラストはその母親がカラスであり、精神科医がカラスだと見えるように偽装して去って行ったようにも解釈できる。そしてラストショットの真っ黒な後ろ姿はカラスであるようにも見える。

この映画も『M』と同様に、悪によって電灯が揺らされ、それによって町の人々の善と悪の混在した姿が浮かび上がり、それによって市民が互いに裁き合う状態を描いた映画のように感じる。そしてその中において悪は人間を超越した大きな存在ではなく、市民の中、町の中に存在している。そして、そもそもなぜ電灯が揺れるようになったのか、そこにその大きな存在の気配や不吉な予感があり、それがその陳腐化された悪である精神科医のより奥に潜むものとして描かれているように思う。ラストの母親の姿は闇へと向かっていく人々の姿でもあり、その奥に潜む悪を象徴したものでもあるように感じる。
河