とうじ

密告のとうじのレビュー・感想・評価

密告(1943年製作の映画)
4.5
同じくクルゾーが監督した「犯罪河岸」を思い出した。あれは偶然と必然、真実と嘘、正義と悪、愛と憎しみ、コメディとサスペンスがエンジン全開でギャンギャン回転しながら、物語が目まぐるしく展開していき、観客がそれにギリ追いつけるか追いつけないかの速度で走り抜けていったと思ったら、急に風呂敷がたたまれ出してクリスマスになって終わるという、初見ではどのような感情になっていいのかわからないくらい忙しい、暴走機関車みたいな映画だったが、本作もそのスピード感、情報の横溢、そしてそれをまとめるのに必死の演出(またそれが上手いから辛うじて成り立っている)という点で、似通っている。

が、本作は暴走とは言いつつも、「犯罪河岸」と比べて、車輪ががたつき過ぎないように、むしろこごち良い振動を発しながら、全速力でむこう見ずに走っているという感じがした。
というのも、「犯罪河岸」は偶然によって登場人物が悪と不安に巻き込まれる物語だったが、本作の登場人物を苦しめるのは、自分の内から出てくる欺瞞と偽善であるので、巻き起こる事件とその周辺の物語が重さを獲得している。本作の徹底された性悪説の元、人々を結びつける補助的な役割を担うのにすぎないのが偶然なのであり、それが本作の展開を地に足ついたものにしている。

「郵便」というシステムが、いかに民衆の社会生活の基盤をなしており、筋肉に張り付いた皮膚のような存在かというのは、ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」でも描かれていたが、本作はそのシステムを伝って、大量の匿名の密告文書が小さな村の住民達の間で蔓延することにより、悪意が猛毒のように広まっていき、村全体が熱に浮かされたようになっていく。この、素朴な片田舎に突如訪れるパラノイア的世界観が、見ていてかなりヒリヒリする。

そんな物語が畳まれた時に広がる光景が、「犯罪河岸」のオプティミズムとは似ても似つかない、荒廃した絶望を表すものであるのは、必然以外のなにものでもないのである。
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