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妾二十一人 ど助平一代のニューランドのレビュー・感想・評価

妾二十一人 ど助平一代(1969年製作の映画)
3.5
☑️『妾二十一人 ど助平一代』及び『裸体』記憶イメージ▶️▶️
一応、7月に書き上げて投稿直前だったのが、かなり纏めて消えて、その一本が本作で、今から見るとというより、おそらく当時ですら、異色の旧トーン·純粋形。映画として、稀にみる素直に、表現·演出演技·テーマと素材に向き合い、はったり·気負い·見栄を消し去り、造り抜けてる作品で、師の溝口以上に映画の本来の理想形を守り抜いたとして、語らないは失礼に当たると、筆を取り直す。自らの演出はケレンやシツコさと無縁、只·作劇と世界の再現·構築に向かい、役者にも、スターの間合いや気取りは削り、只キャラにだけ奉仕させ、はみ出し厳禁、稀なる映画純粋世界。
本作も、傍目·期待の色気·裸·ギラギラ感は全くない。人を横や縦に行戻り自由にさせ、カメラはそれを越えずに控 えめ豊かに落ち着いて沿って奥行きを増す反復。切返し·どんでん·窓枠越し·俯瞰め·90°変·アップ·襖越し見聞き入れ·も、端正·正確と云う以上に、映画そのものを完全·でしゃばらず、おっとりしかし適度贅肉保つ。セット·美術も正確·慎ましいが、赤ほか原色がケバケバしくなく、命·個性や世界の粋·覇気として大胆に取り巾持って、嵌め込まれてる。巾を持つ名役者らも、役柄に殉じる事で、巧みさより本物を伝えくる。若い城野·橘という我々の世代のま、アイドルも深く成りきって、花を添えるどころでない丁々発止。これらの顔が、終盤生きてた死者の筈が現れた時の、アップ連は最高の(戸惑う多様な顔の)変化急流即ち大河入り。それよりも、どこか衣や体の重心落とし歩く世慣れた品のなさ·諦め続きの運のなさを気にせずの佐久間の、ひとり田坂?の教え開陳、巧み変化味を奥には収めずは、他と異質で才能隠さずが清々しく映画を超えてもいる。映画の時代のあまりに美しく誠実な徒花に成りかねない、本作の未だ作中には現れていない、来るべき非情な世への、楔·抵抗なのかもしれない(佐久間に関するデクパージュは、ひとつ突き放してる)。
話自体にも、時勢への抵抗が、当たり障りなくまぶしてはある。明治末期、艶福家というより、本人曰く「だらしないのと、(只)助平は嫌いだ。ワシは只、堅いだけ。金のある男しか、女を養い、幸せ·満足は与えられない。精力はその為に必要。社会貢献をしてるし、そう出来る人間は限られる」、民度を高める牛丼屋を零から急成長させ、支店を10数人の妾(子どもらはその数倍)に任せ、彼女らや周囲の男らの性についてもおおらかな、主人公。ある、足抜けして学生と逃げてきた娼婦の世話をするようになって、満遍なく訪ね与えてたSEXを止め、やがて女たちを離れ·より完璧本格産業へと·ひとり孤島での肉·飼料の元作りへ向かう。直後その船の遭難事故。遺書は多額現金の主を、先の女に与えるとしてたが、彼女の執着無さにほくそえむもする妾=支店長ら(本妻も既に亡くなってて)。主人公は運の強さで生きて戻る。しかし、執心の女にだけ、強く云い放つ。「出てけっ。(留置所の)男と一緒に暮らせる手筈は整えた。見た目の貧しいが不幸かは、当人だけにしか(内実は)分からない。ワシが本当に惚れたはお前だけ」
佐久間の扱い·存在の与えが、作品を会社の要求的·一般的市民感覚に作品を引き戻そうとしてるのか、或いは、作品の本質を更に捻り·人を食ったもの·狭いモラルをヤンワリ突き放したもの·にしているのか、今一つ判然としないが、本作のある種の端正さは、ありきたりに競わせ·本質を薄めがちな、価値観の軋轢のドラマなるものを無化する為であるは確か。
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そうすると、監督第1作目の、『裸体』から、タッチとキャラの珍しい程の映画的尾ひれと無縁のこの作家の作風の現場的原点を確かめたくなる。しかし、特集の一週目は、本作が最後、明日から作品群は一新され、無理と分かる。以前観た時は、前半の·地方と地場産業のあり方の描写に反し、後半、主人公が都市部でスイスイ上昇してくに連れ·抽象的になり·地力が弱まる、と書いた気がするが、今考えると、故郷の2度と現実には現れず·存在も薄まるのは、主人公の宙ぶらりんぶりをそのまんま描く手立てだったのだろうか、と思ったりする。

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