ヤマダタケシ

群盗荒野を裂くのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

群盗荒野を裂く(1966年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

2021年10月 U-NEXTで

・印象的なセリフ。革命を起こした労働者たちと地主が対峙するシーン。「わたしたちが金持ちだから殺すのか?」という地主の問いかけに対し「わたしたちが貧乏だからです。そしてそうしたのはあなたたちです」と応える労働者たち。地主の個人のパーソナリティではなくあくまで構造自体を憎むべきものとして捉えている。
・というか今作、憎むべき対象として構造は描きながらも個人対個人のレベルでは憎しみが生じない。
・革命の機運が高まるメキシコ、その中を暗躍し金を稼ぐテイト。冒頭と最後、駅に並ぶメキシコ人たちを抜かして切符を買うテイトの振る舞い、また彼が少年から投げかけられる「メキシコは好きになった?」という質問に対する「好きじゃない」という言葉から(これなんとなく『モンタナの目撃者』の殺し屋の「おれはこんな所来たくなかった」というセリフを思い出す)彼が圧倒的にこのメキシコと言う場所を軽蔑していることが分かる。
・しかしながら今作で描かれたのは、そんなテイトが利用する目的で近づいたチョンチョとの間に友情以上の友情を感じてしまうところにあったと思う。目的のためでもあるのだが、チョンチョの部下たちをひとりづつ殺していく過程はある意味チョンチョとふたりだけになろうとしているようにも見えるし、最後に殺すのがチョンチョの弟つまりチョンチョの一番強い繋がりだったところにも、ある種テイトがチョンチョのメキシコとの繋がりを切って行く過程にも見える。
・つまりアメリカから来た都会人っぽい殺し屋が、全くもって粗野な男に何故か惹かれていく過程が描かれるのだが、このチョンチョというキャラクターには確かに好きになってしまう魅力、存在感としての魅力が圧倒的にある(Lile a ミフネ)。
・一方チョンチョの側はテイトと旅をすることで、自分がそれまで身を置いてきた環境の、自分自身の粗野さに気づいて行く。貧しい人々、貧しさゆえに貧しいという事にも気づいていない人々に対する彼の「こいつらだって貧しいんだよ」という言葉、その時の振る舞いからは絶妙に貧民自体に対する無意識の差別意識がうかがえる。
・そして押し入った地主の妻をレイプしようとする部下を無意識の内に射殺してしまったチョンチョの振る舞いからは、テイトと出会ったことで彼の中に出てくる自分の生まれた環境への恥ずかしさ、振る舞いへの恥ずかしさが出てくる。
・テイトがチョンチョの粗野さ、人間味にこそ魅力を感じたのと反対に、チョンチョはテイトの何かしらの洗練、都会人っぽさに魅力を感じている。
・元々チョンチョと言うキャラクターはメキシコ人であるが、生活としてその場所に根ざしているわけでは無く根無し草の暮らしをしている(絶妙にチョンチョは革命を経て独裁者になるような人ってこんな感じなのかなぁってリアリティがある。革命と言うファンタジーの中では生きられるが、生活を作ることはできない)。
・その彼が少しづつテイトに惹かれていくのは、その後ろにある都会人っぽさに惹かれて行くからであり、テイトと過ごすことで彼は都会人、資本家側になっていく。
・しかし、それに対する違和感がハッキリ感じられるのは靴磨きに声をかけられた瞬間であり、自分は靴磨きの側だと言うこと、資本家が貧民から搾取する構造の中で、貧民から資本家になる道を示されながら貧民の側で戦う側に踏みとどまる選択をしたチョンチョはテイトから差し伸べられた手を掴まず、彼を射殺する。
・その瞬間のテイトとチョンチョのやり取りの、お互いに人として相手を想いつつも、列車という離れて行く構造によって引き離され、殺すシーンは本当にロマンチックであった。
・そして最後、スクリーンの向こう側に消えて行くチョンチョが美しい。