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終着駅 トルストイ最後の旅のodyssのレビュー・感想・評価

3.5
【崇拝者に囲まれた文豪の煩悶】

文豪トルストイが晩年に夫人といさかいを起こし家出して小さな駅で死んだというのは有名な話である。それが思想上の問題なのか、或いは文豪といえども夫人との不仲という人間的な煩悩から逃れられなかったということなのかについては、日本でも小林秀雄と正宗白鳥のあいだで論争が繰り広げられた。

その晩年の事件を描いたのがこの映画。ただし文豪だけでなく夫人の側にもそれなりに光を当てているし、晩年の文豪の周辺に出入りしていた人物たちもそれぞれに個性や考え方が描き出されている。

映画の進行役として、文豪に心酔して彼の秘書に採用される青年が登場する。われわれ観客は彼の、初めて文豪やその周辺の人物たちと出会うウブな視点を通してこの作品を体験する。その意味でこの青年を進行役にした映画の設計は成功したと言えるだろう。

文豪の周囲にいた人々の中にはかなり教条主義的な人物がいたということがこの映画から分かる。青年は魅力的な女性と恋に陥るのだが、一種のコミューンとして運営されているその地では個人的な恋愛は歓迎されない。

この映画で私にとって最も印象的だったのは、そうしたコミューンの教条主義と自分のプライヴェートな恋愛との矛盾に悩む青年に対して、文豪が恋愛の素晴らしさを語るシーンである。文豪は若い頃は身分と財産とに恵まれていたこともあり――彼は貴族の御曹司である――かなり女遊びをした。こういう人は年をとると逆に変に道徳的になってしまったりするので、トルストイにもその傾向はあったけれど、この映画での彼はむしろ自分が生んでしまった教条主義を越えて若人たちの恋愛感情を肯定する老人として描かれている。それは、周囲に多数の崇拝者が集まる有名人がかかえる矛盾をそれと意識して、その矛盾を乗り越えようとする態度であり、文豪の人間性が垣間見える部分なのである。

この映画がどこまで事実に忠実でどこまでフィクションなのか、分からないのがもどかしい。その辺を明らかにするのは本来、パンフレットに文章を書いている専門家の仕事だろう。パンフレットに登場する2人の外国文学者のうち、池内紀は専門がドイツ文学だしここではエッセイストとしての役割で出ているようだから仕方がないとして、もう一人の沼野充義はどうしたことか。東大教授のロシア文学者として、本作におけるフィクションと事実の問題に言及しておくべきなのにそうしていない。怠慢と言われても仕方があるまい。或いは原稿料泥棒か。

仕方がないのでシクロフスキー『トルストイ伝』をちょっとのぞいてみたら、例えば文豪の最期に立ち会ったのは息子であって(この映画のような)娘ではなかったようだ。また、夫人が文豪の遺言での財産分与に神経質になったのは、トルストイ家には文豪の息子や娘、さらにその配偶者や子供(文豪の孫)など、養っている家族親戚が三十人以上いて、さらにそこに使用人が加わるからだったという。映画はそこまで描けていない。家計の問題に夫人がやかましくなるのは当然だが、その背景をきちんと出していればいっそう説得的な作品になったろうと惜しまれる。
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