ニューランド

ハムレットのニューランドのレビュー・感想・評価

ハムレット(1964年製作の映画)
3.9
コージンチェフは、戦後の『リア王』らを中心とした辺を観たいのだが、アテネフランセ等でもやるのはやるのだが、回数も少なく、仕事とぶつかり、何十年はオーバーだが、なかなか観るのが叶わない。口惜しさがたぎるくらい、これは偉大な作家である。全く旧ソ連映画に疎く(それ以外もそうだが)、大口は叩けないが、個人的印象では、ドヴジェンコ ·パラジャーノフ·メドヴェトキン·エイゼンシュテイン·バルネット·ソクーロフらと並ぶ巨星中の巨星であり、ヴェルトフ·ローム·カラトーゾフ·クリモフ·タルコフスキー·ゲルマン·ボンダルチュクらの(異能)実力派( フツイエフらは1本しか観てなくて位置付けを控えるが、少しの努力で観れても、改めてそんな気も起こらない歳ではある。プドフキン·ミハルコフらはパンチ不足)を上回ると思う。この『ハムレット』だけは、やる頻度高く、わりと無理少なく観れるが、戦前の映画·人間·イデオロギーが、ギラギラしていた頃に比べると、シェークスピアの極めて高度かつ普及性も持った、分解·定着という知性は感じられるが、熱狂には届かない。しかし、以前演劇を観てて何回かNHKの撮影班が着ていた事があったが、後で当時の教育TVで観ると、密度·充実度の1/3も出てこない。それくらいムービーカメラというものは非力なのである。本作は舞台的な(やや)俯瞰め長回しや、映画的な、構図の力強い作り込み、動くものを捉えるカッティングのやや方向をバラけさせての積みらが混在している。しかし、それは舞台·映画を超えた演劇·シェークスピアの感性·構築力を解釈以前の落ち着いた本能的選択にも似せて表す手段なのである。昔、勿論邦訳版でだが文庫を読んだ時、『リア王』等の圧倒的筆致·仕掛けの力量に比べ、『ハムレット』は何か妙にモヤモヤしていた。また、シェークスピアの映像版としてはNHKが40年近く前やってた原典通りのものは部分的にしか観ておらず、大体はオリヴィエの映画で観ている。しかもそれは映画興業に合わせた原作の短縮版て、『ハムレット』等も元の戯曲通りにやれば、ブラナー版のように優に4時間はかかるらしい。
時間的にもやや長め、処理的にも客観的にシェークスピア世界の本源的な感覚に立ち合ってる様な傑作が本作である。
「外気に当たる」を避ける虚弱な王族のあり方の一部が利用され遠ざけられ、それを標榜しながら、じつは隠したところで権力·肉慾に取り憑かれ、「兵を死に追いやる無用な遠征」を取ることもある、者らの「かん計·企み」をめぐらし。それは遠ざけられた者も持つ王族らの特質であるが、彼らは迷い「善と悪の2つに引き裂かれに、迷い」続けてゆく。両者は「名誉や誇り」にもねじ曲げられ、消耗·交錯·滅ぼし合い、「骸骨となり、あの世で全てが狂人」と化してる世界に届く。本物の生気·生命力とは別の演劇的な手応えの魅惑で、踊り·本当に狂うオフィーリアはマリオットのようであり、様々進軍の力強く·また方向定まらず細かく不思議な行軍の美しい連ねらの映画的スペクタクルは人物らの内的方向の定まらなさを知らず観る者に体感させ、ラストの剣の試合の捉え等は舞台での眺める体感性あり、母や義父に言葉や剣で突き抜けるくらいに正体の行き着きを迫る·妙に白黒明晰なハムレットはドラマを内的にも立体として熱しあげたものであり、波打つ海へね巨大崖影·巨大仰角の影的父王の亡霊·自然を囲み遮る巨大建築物らの映画的造形は舞台が内から内包する張りである、仰ぐ図やL·自然のうねりも威容というよりバランスとして多用される。デンマークの隣国ノルウェーのポーランド進軍への領地行軍、前王死に伴う領地の再配分主張者現れ、身分の違いと恋愛と血の濃さ家族愛への拘り·執着ら、周到な策謀暗殺手段の妙な綻び、らもっと巧妙に練られ研ぎ澄まされた要素が、戯曲を自然な形·宇宙·生き物として現すように、偶然と必然がゆきあって、柔らかくリンクしてゆく。
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