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わかれ雲のニューランドのレビュー・感想・評価

わかれ雲(1951年製作の映画)
3.5
☑️『わかれ雲』及び『女と味噌汁』▶️▶️
永き?に渡った五所月間も最終盤。最著名作は時間合わず外したが、本数的には2/3位は観たか。もう卒業世界と思ってたが、またしっかりハマった。我ながら成長がない。
『わかれ雲』は懸案の作だった。他所でも書いたが、昔文芸地下で期待して観た時、上映時間が20分位は短く、あちこちブツ切りの感。イメージは美しかったが、不満が残った。名画座の雄として名高い文芸坐(地下)だが、実態の半面~素材のチェック等は杜撰だった。少し前、FC(若しくはFA)の上映も2度とも仕事とかち合った。今回の最終上映にやっと行き会った。
独立プロの清新さ・自然ロケ撮影の美しさで謳われた作だと思ったが、全編を通して観ると、半ば納得・半ばあっさり感が残った。大塚・岩崎はすぐにわかるが、小柄なのが若き仲代夫人なのかなと今一つ特定出来なかったが、グループ研究で訪れた信州の途中乗り換え駅・小淵沢での東京の女子大生らを描いた序盤は相当に優れている。5人のキャラ、当時の新しい世代の空気⋅空間と、個性と調和大事の引き摺る⋅一体感と無意識不協和のデコボコを、ホームと列車の位置、駅前店と改札前への動きを、90°変のリバース⋅縦の図⋅無駄のない移動⋅群の中の違和とさりげの取り出し寄り、らで清新と角度と不定、其々をヴィヴィドきわまりなく抑えてゆく。1人が際立って、心の不和も身体の変調もはみ出していて、立ち会った親切な仲居さんの世話で、仲間と惜しみ合うも⋅山田館なる旅館で単身療養となる。彼女の心身の不調「偏屈」の源の、若い継母が訪ねくるも、その善意に亡実母から離れられず応えられぬ。旅館や土地の人々の親切と割りきり⋅面倒を嫌がるが⋅救いの手差しのべと求め同等の気持ちへ発現に、東京には戻りたくないという仲居さんや、更に離れた無医村への移住を決意する⋅彼女を見てくれた青年医ら、東京からここに消極か積極か、共に自分では自然な流れで移ってきて深入りしていく、人らに強い影響を受け⋅戻ってきた仲間の帰郷に合流せず残らんとまで進むヒロイン。勇み足も地道な歩みを改めて固めるに冷静化し、(一旦)この地を離れる(遅れ訪れた実父にも一人立ちを自然に示す)。このメインパートはやや図式的であり、タッチも伸びやかだか強さ⋅緊張感を欠く所もあるが、戦前サイレント期にみられた、メインシーンに直接関係ない外景らが介入⋅挿入されてくる才気が、ストーリーを越えた感覚で締めている。
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『女と味噌汁』。『天国の父ちゃんこんにちは』等と並ぶ『東芝日曜劇場』の長期⋅不定期⋅看板シリーズだが、正直映画版は、うわべだけの形を組立た、ぶち壊しに近い内実の作である。これを観てしっかり歓ぶ人等いまい。映画としてはそこそこ作り込んでるし、池内の和服の裾捌きを映画ならではの退きのサイズで観られたご褒美はあるけれど、しかし、これは違う。基本、広い空間⋅ロケの運動感⋅多彩な階層の対比⋅社会丸ごと捉え感といった映画のスケールのない、小規模のスタジオTVドラマ故の、小さなしかし見落としたくない何かが拾えるが生命の作で、そのニュアンスが大味になってしまってる。
TVでは実現出来ない、セット⋅色彩⋅立体カメラアングルと移動⋅振幅のあるドラマの羅列。映画ならではの力だが、無神経に主人公側もゲスト側も、感情を勝手に膨らませ入り込み⋅そして安易に障害が視野に入ってきて、ポシャる繰返し。テレビに比べしみじみ感がまるで違い、小さなエリアで小さな心の、コミカルな煩悶と深い思いやりの表に出ない交感、が薄くなってる。平岩を映画版脚本に起用しなかった失敗かも知れないが、決して五所演出が良くないと云うわけでもなく、映画向きでない世界⋅題材なのだ。誰もそれほど感動しない様子を感じながら、実感する。思わぬ心の通じ合う半ハプニングもあり、そっちの方は手堅いが。
名優や 個性派を揃えすぎで、最初の同窓会の様子からして違和感続きで、強烈な個性の裏側現れの数々(反してヒロイン馴染み周囲の過ぎた安定感も)、時代⋅世相へのストレートな向かい方は、映画的ではあっても、TVドラマの良さを殺してる、とテレビッ子ではあっても、決して映画ッ子ではなかった者は思う。でも、手鞠⋅小桃⋅おかあさんらに再会できただけでご褒美ものか。
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