レインウォッチャー

セーラー服と機関銃のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

セーラー服と機関銃(1981年製作の映画)
3.5
わたしは、「銃をぶっ放して "快感" 」という断片だけがかろうじてTVに気配を残していたくらいの世代。
今で言えばミームに近いそのネタを確認するライト考古学的モチベと、往年のアイドル映画としての触れ込みを前提に観てみれば、なかなかどうして意外な発見のある映画だった。

ある日ひょんなことから零細ヤクザの組長になっちゃったJK、なんて粗筋からして自明なように、マンガ的で良くも悪くもテキトーなリアリティラインをもった映画なのだけれど、そのぶん(?)作り手は好きなようにやっている。

アイドル映画なのに顔もよく見えない遠景固定や室内における「何か」越しアングルの多用に、長回しに次ぐ長回し。終いには薬師丸ひろ子をクレーンで吊るすし、これは『ションベン・ライダー』等で見た相米慎二監督のクセがそのまま原液投与されているものと一目でわかる。

更に、急にデュオで歌い出すプチミュージカルに、繁華街の下半分は滲み、音響は時に奇妙で、敵の寝ぐらはショッカーのアジトみたい…と、完全に素材をオモチャにした実験室の様相を呈している。

これらの試みに果たして必然性はあったのか?と訊かれたら、正直なところわたしには何とも言えない。
ただ、この日本にも、メジャーなフィールドであっても映画が映画たらんと気障でいられた時が確かにあったのだ…ということが、嬉しい発見だったし何ならちょっと羨ましい。まあ、「YOUたち」とか「おたくたち」なんて二人称が飛び出す時点で、ほぼ異国みたいな情緒で観れちゃうんだけれど。

ストーリーはティーン少女の青春モノとしても成立していて、そこに彼女を取り巻くヤクザ者たちがたどる運命がもつ「過ぎ去ってゆくもの」としての哀愁が重ねられ、悪くない肌触りの秋風を頬に残す。(※1)

みなしごになった主人公と組員たちが織りなす疑似家族的な関係は思いのほか切なくて、暴走族とバイクで駆けるシーン(「俺の背中で雨が降ってるようです」)なんかはちょっとうるりとなりさえした。
組員たちにとって組長となった主人公は守るべき娘であり甘えたい母、そんな彼女がラストにはどちらでもない《女》となってゆく。(※2)

この三位一体的な完全さはまさに幻想として「完璧で究極のアイドル」といって差し支えなく、やりたい放題に見えて実はその根幹をしっかり守った作品だったのかもしれなかった。

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あと意外だったのは、例の台詞の聴き心地が、よく見る表記だと「カ・イ・カ・ン」なのに対して実際は「カイ・カン」に近かったこと。
『鬼龍院花子の生涯』のときもそうだったけれど、やはり確かめるのって価値はある。

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※1:麻薬をめぐる各組の抗争に巻き込まれる中、最後に主人公たちを脅かすのは昔気質のヤクザでも狂ったピカレスクな悪役でもなく、がっつりオモテ社会の《資本》に迎合した奴ら。このへんの設計にも、通ずるものを感じてみたりする。

※2:死んだ父の愛人(?)として現れるマユミ(風祭ゆき)は、主人公の未来の可能性のひとつとして機能する。マユミもまた「過ぎ去ったもの」だ。(ブランコのシーン)