映画漬廃人伊波興一

死霊のえじきの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

死霊のえじき(1985年製作の映画)
3.9
21世紀の今こそ、この血肉のお祭り騒ぎの背後に慈愛に満ちた楽天性を読み取りたい、と思う

ジョージ・A・ロメロ
「死霊のえじき」

「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」「ゾンビ」から繋がるゾンビトリロジーの最後を飾る本作をリマスター版として久しぶりに観直して茫然としました。

この作品が思っていた以上に傑作と感じたわけでなく、公開された1980年代よりも21世紀の現代の方がはるかに公開される環境風土として相応しいと思えたからです。

世界中に多くのファンを抱え込んでると思しき「死霊のえじき」について今更語るのも気恥ずかしい限りですが、やはり見過ごせないふたつの点は、舞台のほとんどを地下の閉塞空間に設定した点と、敵対構造をゾンビとの死闘ではなく生き残った人間たちの間に絞り込んだ点にある、と改めて言っておきたい気がします。

前者はどうやら低予算という製作事情が背景にあったようですが何しろ序盤とラスト以外、事の推移が地下の通路か洞窟の中だけで進行するわけですから相当な(活劇感)を間髪入れずに繋いでいかねばなりません。

それをさしたる困難もなく涼しげに画面処理していくジョージ・A・ロメロの編集リズムには文字通り胸が突かれる思いがします。

そしてもうひとつロメロが仕掛けた生き残った人間同士の対立構造のありよう。

地下の基地に立てこもった軍人たち、唯一のヒロイン、サラ(ロリー・カーディル)を含む科学者たち、技術者たちなど、それぞれ充てがわれた立場や役割、目的などを、野暮な説明をいっさい介入させずに短いショットだけで伝えてくるシナリオの匠技には舌を巻くばかり。

ゾンビものでありながらも見せ場の骨格をゾンビとの死闘ではなく、常に一触即発の極限状態にある人間同士のいがみ合いを中心に作り上げられているこの映画の最大の見せ場のひとつがやはり会議場面でしょうか。

ギャング映画なのに最大のクライマックスを疑心暗鬼に満ちた腹の探り合いに焦点を絞ったタランティーノの「レザボア・ドッグス」のような緊迫感です。

そして前代未聞のウィルス脅威に晒されている21世紀の私たちがこの対立から読みとるべきは、ゾンビという存在が人類共通の(敵)ではなく(大厄災)である事。

手のつけようがない(大厄災)の前にすっかり疲労困憊し、沸き上がるカタストロフィーが、取り巻く世界より、生き残りにかけた人間同士の間に呈されていくのは、程度の差こそあれ劇中人物も現実の私たち人類も同じです。
たったひとつのマスクや一本の消毒液を血眼になって奪いあっていたのはほんの去年の事なのですから。

ですが「死霊のえじき」で忘れてはならない最も倫理的な場面、パイロットのジョンがサラにゾンビ研究の不毛さを諭すくだり。

しかもその空間が、唯一残された文明の香りを残す隠れ部屋であるのも寓意的です。
ローランド・エメリッヒ「インディペンデンス・デイ」やマイケル・ベイ「アルマゲドン」のように(大厄災)の対象を解析して手なずけるといった思い上がりなど回避するべく、ゾンビとの死闘からあっさり身を引くに限る。

かくしてロメロは「死霊のえじき」で辛うじて生き残った3人をヘリコプターでフロリダの海岸に解放します。

逃走という手段で人類への(生)を楽天的に肯定してみせたジョージ・A・ロメロのプロフェッショナルな仕事ぶりには慈愛に満ちて今更ながら脱帽します。

コロナで苦しむ私たち人類にだって(苦い勝利)という可能性が充分にあるのです。