ナガノヤスユ記

小早川家の秋のナガノヤスユ記のネタバレレビュー・内容・結末

小早川家の秋(1961年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

うーん、面白い…。
小津にとっての家族、それは大いなる矛盾を内包しながら蠢く装置。とりわけ戦後日本における家族の変容を描いているという点では、本作も他の小津映画と通底しているのだけど、小早川家にはもはや、それを形あるものに押しとどめようとする主体 (<父>や<王>、<神>の権威や言葉) は存在しない。これを見てなお小津が保守的な家族観を描いていると口に出すアプレゲールはいただろうか。
冒頭、亡くなった長男の嫁にあたる秋子の縁談話。婚姻契約、家族という制度、男と女が一対のペアをなすシステム。それらを維持しようと画策する大人たちの滑稽な姿で物語は幕開ける。しかし、そうした思惑は、つかみどころがなく、浮世離れした存在にも見える秋子のつれない態度の前にあっさりと葬られる。原節子はここでも、文字通り小津映画のミューズ、明らかに異質な存在として現れる。
小早川家には家業がある。けれども、その経営状況は、近代的な巨大資本が勢力を伸ばす中、芳しくない。長女・文子の娘婿であり、経営を切り盛りしているらしい久夫は優しそうだが、どこか頼りなく、心の中では事業の身売りを覚悟している。
次女・紀子は、家族や周囲から寄せられる世俗的な結婚の期待を知りながら、心では遠く札幌へと発った男を思っている。
当主である父・万平衛は、娘たちと家の行末を口先では案じるものの、その実、心はすでにここにあらず、手厳しい文子や、従業員たちの目を盗んでは、昔の愛人のもとに足繁く通う。そこにはもはや、旧世界を守ろうとする厳格な父、放っておけば路頭に迷うだけの構成員をまとめ上げ、導こうとする<王>の姿はない。
母を失った小早川家には、時代の流れとともに家族が散り散りになっていく拡散的な運動を収束へと向かわせる、相反する力がない。亡き母の遺志は、歯に衣着せぬ文子の言葉に宿るのみだ。(中村雁治郎を追い詰める新珠三千代の矢のような台詞回しが素晴らしい)
諦観と表すにはあまりにも突き抜けた死生観。年老いて半ば隠遁し、死を待つ (待たれる) ばかりの<父>には、もはや威厳もクソもない。血の繋がりも定かではない西洋かぶれの婚外子に、ミンクのストールを買うだけが唯一期待された役割であり、あとは紙切れになり宙を舞う競輪の車券のごとく、捨てられるだけである。
そして訪れる、あまりにも呆気ない幕切れ。残された者たちは一応涙を見せ、父がいたからこの家があったと文子は言う。けれど、それは別に父の存在を認める手向けの言葉ではない。家の名、この家族さえ、死ねば後には何も残らないことを示唆している。
海辺での、どこか非現実のような、暗澹たる葬列。それは、小津の目にはどこまでも歪にうつった、けれども、無方向に拡散する混沌をギリギリ形ある秩序に収めていた、<父>なるものへの送別、先逝く者らへの決別の儀式でなければ、なんだというのか。