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上陸第一歩のニューランドのレビュー・感想・評価

上陸第一歩(1932年製作の映画)
3.8
✔️🔸『上陸第一歩』(3.8) 及び🔸『奴銀平』(3.8)🔸『新編 丹下左膳 隻眼の巻』(3.9)▶️▶️

やはり、同じヤスジローは、同列の力を持っている。圧倒的ですらあり、この後も40代で早逝するまで、貴重な作品を何本も残してく(『~八重ちゃん』だけの作家ではない)。と、初期作と『~八重ちゃん』と並ぶ代表作·佐分利~桑野の掛け合いを再見するつもりだったが、会場に向かおうとして、時間的に間に合わないと気づき(30秒でも遅れたら、未だ映写スタートしてないのに入れてくれない所。40数年前その悪慣例を抗議して改善したのに、只くつろぎに来てる高齢者観客が主導して、うたた寝を妨げられたくないと元に戻してしまった)、1本しか観れず。島津と並ぶ映画を知り尽くし、かつ奢らず謙虚な、正に映画の申し子同士(只一方は、現実に近く、一方は虚構を愉しむか)の、中川の最も安心して微笑ましく観れる作に変更す。
トーキー初期で殊更台詞を明瞭に言うを心掛けてるので、喋りものろい。内容も、見かけ気丈だが、義理の父やそこを出ての生活で、自分を追い詰め、食い物にするな人間ばかりに逢ってきた女が、その身投げを助けた船のかま焚きの男が、厄介なこの世に引き戻したばかりか、世の中に打算のない·頼りに素直に出来、自分は無防備の幸せに浸かれる存在なのを、発見し、彼の自分を護る為の殺人容疑の服役を待つ決意をしてく、という安っぽい三文場末芝居だが、照明が暗めも力が明瞭で、素晴らしい情景を持たされた、場とその中の2~5人が、縦の図·横対しトゥショット·各表情アップの向きをバラけさせての意志浮き出る組立·身体部位のティルト·距離ある時の間に存する半見えの建築·刻々変わるサイズと角度の選択の確かな進行力と変わらぬ密度保持で、サイレント期ウォルシュの人間関係絡みや個々の魅力を存分に浮きただせ、かき混ぜ正しく進めてく力が認められる(手本のスタンバーグ作のような高級感ではない)。
併せて、アクションシーン(男同士ばかりでなく男と女の間にも)のスピーディと力の凝縮·伸び、素早い(総体長め都度にも)フィットパンらとカッティングの力。パイプや天井灯や拳銃·食べ物袋·歯磨き箱入りらの道具のアップ入れや人間の身体の一部になっての味わい。更に屋外、港の、波と船遠景·船体·煙突·デッキ佇み、船内のかま焚き·黒光りの身体、らの造型の伸びやかさ·逆に凝縮密度。そして、全体の、(横)パンや横移動、時に短めに寄るが加わり、フォローらの、でしゃばらぬ逆に安定確かさ。装置も暗めトーンもあり、壁か飾り、長椅子やテーブルら、実に確実で、華美な軽さの対極、コンパクトだが、真の質があるもの。今回の特集、さほど観てないが、偶々見た重雄·重吉·島津、皆、映画そのものを創ってる。重吉作品等、本年度ベストと知人は言っていた。小津は飛び抜けた存在なのではなく、このような環境のあくまで一部なのを忘れてはならない。
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中編と見間違えそうな、一気呵成快適な中川作品と、併映は大曽根。後年戦後時代劇を幾本か見ただけだが、変な癖や格出しのない、くどい色がついてない、中庸か清廉さを、激情のドラマでも感じる作家。癖の味わいには欠けるがとにかく、空間や動きとフォロー移動ら、オープン、時代劇の約束事の纏まりさえ、感じさせない伸びやかさが素晴らしく、また、どこかピタッとはまらないもどかしさがある。『血槍富士』みたいな、仕えてる中堅藩士の仇を果たす、若く無垢で人のいい中間~奴の、ちと考えられない圧巻を突き抜けた動きと意志の力を示してて、仇を打った後は、主人の幼き子が代わりに立てられ、皆からも明るい反応を得てる、結果清々しい作。藩ぐるみの大事法要を上役を越えて任せられた中堅地味藩士が、「赤穂浪士」みたく、名門の上位藩士の指導役が、やっかみや苛めで大事な事を伝えずで起こる、幾つかの失態を主人公らね獅子奮迅で乗り越えるも、式のクライマックスの参列者焼香読み上げで、書面を白紙に差し替えられ、言葉に詰まり遂に自害へ。
屋内にしても屋外にしても、空間の取り方が展開を越えて、広くヌケが清新で、畳作りや走るのへの、次々移動撮影も伸びやかさで自由爽やかだ。地方藩の訛りのある台詞や表情の清々しさもまた、ストーリーや所作に括られぬフリーさがある。それでいて話の纏めを付けんとしてく、懸命の新人ぶりも気持ちいい。
中川はまさに映画の申し子、映画的を身をもって体現の人で、以前見た時も感じたが、映画を分かりすぎてる、余裕と格上げが時に外れ、時に嵌まり過ぎての醍醐味の凄みを見せてくれる。立回りの凄絶さと型の極りかたとそこからの途絶えぬ流れ、自然な情念からの突き上げと止まらなさ、。剣劇シーンは凄絶でまたノリ·キメが心地よさにも繋がる。陰謀·暗躍やそれへのテロ的動きの、深い闇も背後に。一方、傷を負った左膳が匿われた商家の、太ったホンワカ使用人と·チャキチャキ越えて興味や諦観投げ掛け休ませないお嬢さんの名コンビに、主人公の温度差あるも微笑ましく割り込まされると、構図·角度変·美術·カメラ移動も、引き締まりと堂や自然な格に入るが、その結果奇跡の均質な、映画的気品や限定が生まれ、キャラを際立たせる事に働いているのと、溶け込んでく。このペースと柔らかさ、無理ない品格は他に見れないもの。どうでもいいようなやり取りと、従来からの極め処をもうひとつ渦巻かせて、豊かにしてく、阿吽と呼吸。
前のめりで流れそうで流れず、太刀さばきの的確·大きさとポーズの風格の本家大河内左膳の、新編五部作で、一作毎に監督も変え、一作毎に身体の部位の欠損が増えてく構成らしいが、どうやら不人気だったらしく、最終編は製作されなかったとの事。の、第三作めがこの作品。中川は後年の恐怖怪奇の巨匠は資質の一部で、時代劇·文芸·犯罪ものら得意エリア限りない、眞正の映画マスターなのだ。エノケンの最良映画の監督も彼だ(嘉次郎ではなく)。
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