ベイビー

ピアノ・レッスンのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

ピアノ・レッスン(1993年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

ずっと気になっていた作品
とても美しい物語でした

余白を見せる文学というのでしょうか。語り過ぎないセリフと飾り過ぎない演出は、会話も筆談もできないエイダとベインズの距離感そのものを表しているようで、互いの余白を埋めようと求め合うその眼差しは、もどかしさの中に確かな愛を見つけたように感じられます。

スチュアートという男性と写真結婚することになったエイダは、娘のフローラを連れてスコットランドからニュージーランドへ嫁ぎます。荒波の航路でも海に投げ出されることなく運ばれたエイダ愛用のピアノは、島に持ち運ばれたもののその物理的な“重さ”を理由に険しい森を通って家には運べないとスチュアートに拒まれ、浜辺で淋しく野晒しのまま放置されてしまいます…

もうこのオープニングのワンシーンは“技アリ”ですね。キービジュアルでにも使われている浜辺に置かれたピアノ。冒頭でたったこれだけの状況を示しただけで、ピアノはエイダを示唆する存在なのだと気付かせてくれます。

場違いな環境、定まらない居場所、好奇な視線、知らない言葉、理解してもらえない寂しさ…

それらエイダの心理と重なるようにピアノは沈黙のまま砂浜で佇み、容易には運べないピアノの物理的な重たさもまた、硬く閉ざしたエイダの心の重たさを表しているようです。

こうして序盤からピアノとエイダの距離感を擦り込ませることにより、ピアノは話すことのできないエイダの代弁者となり、エイダの感情を思いのままに表現しているのが分かります。それを最初に気づかせてくれたのはエイダが浜辺でピアノを弾くシーンでした。

放置されたされたままのピアノと久しぶりに再会し、自分を取り戻したかのように気持ち良くピアノを演奏するエイダ。その曲に合わせてフローラも楽しそうに踊っています。本当にうっとりとしてしまうほど美しいシーンです。海辺までの案内人として付いてきたベインズもここでのエイダの意外な一面を見て、彼女の柔らかい美しさに惹かれてしまったのではないでしょうか。

スチュアートとベインズの契約により、ベインズの家へピアノを教えに行くエイダ。しかしその契約は形を変え、ベインズとエイダの間に新たな契約が結ばれます。それはこの家へ通うたびに黒鍵を一つずつ返すというもの。エイダはベインズとの契約を守り、少しずつピアノを自分のものにしていきます。

ここでもエイダとピアノを重ねて見れば、エイダはピアノを取り返すと同時に、自分自身を取り戻していったことになります。あの部屋でピアノが完璧に調律されたように、エイダもあの部屋へ通うたびに少しずつ自分を取り戻し、凝り固まった心ではない本来の自分へ近づいていきます。

“契約”のもと、欲望のままエイダを欲しがるベインズ。しかしベインズはエイダを欲すれば欲するほど、人の身体は手に入れれても、人の想いは支配からでは手に入らない事に気づきます。

その虚しさとエイダを娼婦の如く扱っている罪悪感により、ベインズはピアノをエイダに無条件で全て返します。そして「もうここに来なくていい」とエイダに告げました。それからエイダに対して抱き続けた想いも、ここで初めて語り出します。

人を想う苦しみ。

欲望の果て、その苦しみを知ったベインズでしたが、エイダの夫であるスチュアートもまた同じように悩んでいます。思うように会話もできず、いつまで経っても抱かせてもくれないエイダ。それでもエイダに対してきちんと距離感を保とうとしているのですが、それを無視するかのように、エイダの心の扉は重く閉ざしたままでいます。

しかし、それはそれで仕方がないことだと思います。スチュアートはエイダを“結婚”という“契約”で受け入れた事になりますから、エイダは自分が買い占めた土地と同じ感覚として、自分が所有している人物としか思っていないのではないでしょうか。現にスチュアートはピアノを土地購入のための道具にしています。ピアノを浜辺へ置きっぱなしにした件といい、スチュアートはエイダの本質を全く見ようともしていません。

ある時スチュアートは机に彫られた模擬鍵盤を弾くエイダを見て「音もしない机を叩いて何の意味があるんだ」と訝しげな視線を送っていましたが、そのようにしかピアノの存在を見ていないのであれば、ピアノはエイダの分身だと気づくことはなく、エイダが奏でる感情を聴き取れるわけもなく、そんなスチュアートに対してエイダも敏感に、自分のことを何も分かってくれていないと悟るはずです。

それ故、エイダはベインズを選んだのだと想像できます。ピアノを浜辺から運び、ピアノを調律し、完璧な形でピアノを私に返してくれて、ピアノを弾く私に想いを寄せてくれた人として…

それはスチュアートと一緒に居ては感じることの出来なかった喜びではないでしょうか。会話も筆談もできないエイダとベインズが、ピアノを通して対話が出来たことに喜びを感じたのではないでしょうか。ですからエイダは自分の分身というべきピアノの鍵盤を一本抜き取り、想いを綴ってベインズに送ろうとしたのだと思います。これは契約ではなく、自分の分身として、“私の心”として、全てをあなたに捧げるという想いを届けたかったのだと思います。

しかし何の因果か、ピアノから鍵盤が一つ取り除かれた途端、エイダ自身も身体の一部を失ってしまいます。自分の分身が傷ついた途端に自分の指までも失くしてしまったのです。

壊れてしまったピアノ
ピアノを弾けない私

逃げるようにして島から出るエイダとベインズ。エイダにとっての唯一の家財道具はその壊れたピアノでした。しかしエイダはもうこのピアノは壊れているから海に捨てろと言います。小さな舟でピアノを運ぶのは危険なので今すぐ捨てろと言うのです。

今まで自分の分身として共に過ごした大切なピアノ。しかし今はピアノは壊れてしまい、ピアノを弾くための指だってありません。ですからエイダは自分の意思でピアノを捨てさせます。ピアノは男たちの手によって海に落とされます。海に落ちるピアノに繋がった荷造りのロープに咄嗟に足を絡ませたエイダ。エイダはピアノの重さと共に深く海に沈んで行きます…

もうこのラストが最高じゃないですか。最後までピアノはエイダの分身だと思わせる演出。壊れたピアノはエイダの壊れた心。ピアノとエイダは常にニコイチで運命を共にする… 誰もがそのように示唆するよう意識を向けさせておいて、ギリギリのところでエイダはロープを振り解きます。

それはあたかもピアノがエイダの足かせだったようにも捉えられますし、ピアノがエイダの脚から手を離し、“あなたは生きなさい”と送り出したようにも見受けられます。

語り過ぎず飾り過ぎない演出だからこそ、こうした余白の中で様々な解釈ができるのだと思います。それで映像が美しく、役者の方々の演技もとても素晴らしいのですから、文句の付けようがありません。

あと皆さんも書かれていることですが、マイケル・ナイマン氏の音楽が素晴らしいですね。物語に寄り添うような曲作りはもちろんですが、時には滑稽に思えるような伴奏の仕方をされていて、作品に対する想像力がより掻き立てられました。

こういった80年代、90年代に見られる、飾り過ぎず、余白を残したまま余韻を味わえる作品が大好きです。まだまだこのような良い作品がいっぱいあるのだと思うとワクワクしてしまいます。

何はともあれ、今日はこの作品を観れて本当に良かったです。とても素晴らしい作品でした。
ベイビー

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