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ピアノ・レッスンのきのレビュー・感想・評価

ピアノ・レッスン(1993年製作の映画)
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「ピアノ」=高度なメソッドが必要とされるもの=エイダは言葉の代わりとして使う=言葉(元来、男性のものとされたもの)を自らのものにすること(内在化させること)に抵抗をしつつ、社会で生きるうえで規範のなかで生きることを余儀なくされることを描く装置として考えると、家父長的な父によって「言葉を話すこと」をやめてしまってもなお、家父長の権威のもとで会ったこともない未開の地に住む男のもとへ嫁がされるエイダの、社会の呪縛(家父長制)から逃れるすべを知らない状況を示すすばらしいオープニングだとおもう(のちにチラ見えされるピアノの鍵盤の側面に描かれたA♡︎Dは、娘フロラの父との思い出であるが、関係を持ったあといなくなったらしいことが小説版ではしっかり書かれている)。白人で自分が土地を買うためなら、知り合ったばかりの妻の所有物であるピアノも自分のものであると主張して売り払ってしまったり、エイダの青白い顔をみて健康じゃないことを心配する(つまり子だくさんは望めない?)あたり家父長制の権化に見えてしまう夫であるスチュアートと対比するように同じく白人であり、征服者側ではあるが、マウイ族に同化して生きるベインズの存在も、規範が文明の上に成り立っていて、白人男性、白人女性=「こうあるべき」という図式が囚われている考え方のひとつでしかないことを強調しているようだし、実際ベインズが全裸になるときには恥じらいを見せたり、不器用な優しさがフェミニンさを醸し出していたように思う。(『パワー・オブ・ドッグ』でもすばらしい描写だった!)そのうえで、ジェンダーの規範を象徴しつつも、エイダの声でもあるピアノの音色を一心に聞こうとし、自らの服を脱いでピアノを拭う動作すらしてしまうベインズの行動や思いに共鳴して、エイダがベインズに惹かれていくのは必然だったように思える。欲望を肯定できるとき、彼女は声を自分のものにする。かつて自分を利用した家父長の呪縛=ピアノを海に捨てることで自分を解放するとともに、夜はそういった社会のなかで生きることを選択できなかった女性たちとともに眠ることを選ぶラスト(カンピオンの母の思い出とともに)に納得の出来だった。好きか嫌いかは置いておいて、すごい映画だったのかもしれん。
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