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ピアノ・レッスンのyuienのレビュー・感想・評価

ピアノ・レッスン(1993年製作の映画)
4.0
頑なに閉ざされた唇の代わりに、器用な指先は滔々と、きめ細やかな感情を鍵盤の上に連ねる。豊かな音は、情熱、躊躇い、思い煩い、そして愛の気配となって空気の中で膨らみ、迸り、溶けていく。

ピアノが奏でる音は、あるときは、なぎさに押し寄せては引いてゆく波の秘めた強さを捉えてみせ、またあるときは、しんと深い幽谷に佇む静けさをなぞってみせる。

音楽の雄弁さにはいつも驚嘆するばかり。88の鍵盤はどうしてこうも複雑で、繊細な心の模様や機微を描き出せるんだろう。
それなのに、美しいものに触れたとき、身体の内側にぷくぷくと浮かぶ虹色のあぶくを、言葉で発した途端、鮮やかな色合いはどうしたってくすんでしまう気がする。
だから、ピアノを学び始めた幼いエイダが喋ることを放棄してしまったのはごく自然な成りゆきに感じた。内なる海と森林の囁きに耳を傾けるには、言葉は必要なかったから。

ピアノは彼女の翼であり、魂であり、そして同時に繭だった。世界から自己を切り離すために自ら糸を吐き、丹念に繭を紡ぎ、纏う。
だけれど、ひとつのレッスンを重ねるたんびに、繭の糸は徐々にほどかれていく。ベインズからひとつ黒鍵を返してもらうたんびに、実はひとつ手放していったことを彼女は知っていたのだろうか。
愛の悦びを知っていくエイダは、まるで繭から1%の可能性に賭けて羽化しようともがく蝶のようだった。

そうして、代償を支払ってようやく脱ぎ捨てられた繭は、深い深い海底に沈んだ。鍵盤に込められた彼女の思い出、決別した過去は、永遠に海の柩の中で静かに眠るのだろう。なんて美しい...
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