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東京画のotomisanのレビュー・感想・評価

東京画(1985年製作の映画)
3.8
 「東京」をキーワードに小津映画のなにかを83年的に解明しようという?それとも小津の現場こそ東京と感じて小津好みな芝居やセットの雰囲気が町中に溢れていた事を30年後の東京探訪で証明したかったのか?ところがどっこい、開けてみれば監督の拍子抜け気分が食品見本工房や竹の子族風景の何とも曲の無い取材に溢れていておかしい。テレビ大国のNHKドキュメンタリーの引用でもいいんじゃないか?

 そもそもロケ嫌いな小津だそうだから、東京の景色や出会う人たちに小津らしい風情の残り香を求めようにも、それはどんなもんか。あの宴席や住居の座敷でおなじみの面々に醸されただよう雰囲気が店先、庭先や玄関からたなびいて街路へ市中へと広がる?これは中々想像のし甲斐がありそうだ。
 ただ東京風景というなら、ろくに小津映画を見ていない中でもとりわけ1932年「青春の夢いまいづこ」の終わりで斉木君熱海行きの列車が東京駅を進発しビル街を抜けると帝国ホテルの先に議事堂が遥かに望める景色が見られる。これは帝都の面目躍如。国威の顕示というには過ぎたさわやかさというところだ。しかし、その景色はもちろん庶民と共にあるものではない。
 それは帝都の都市計画の本来においてあるべき端正さで、横浜港で下船した駐日公使や大使らが近づく宮中参内の緊張とともに東京駅に向かう道中、あるいは離任する最後の思い出として記憶されるべき眺めである。それを共有するのは国のために働く32年当時のお武家方、天皇の藩塀たちである。
 対して民衆の多くは西下の折、専ら新橋駅を用いたと聞くのも、御上のステーション、東京駅を騒がせる事を憚ればこそである。ただし、当の斉木君にせよ彼の同輩ら映画の主要人物らはれっきとした学士であり都心の俸給生活者、到底庶民に一括りはできないし、20年のちの映画の元艦長、企業幹部や医師ら、あるいは元尾道市助役も同様である。

 戦後ともなればそんな気分も失せてしまったろうが、かつてそうした憚りゆえ新橋駅へ向かったか、憚りつつ東京駅へ向かったかで同じ庶民にも一線が画される。小津映画の登場人物の多くは東京駅に向かう人士が多いと思う。ただ、その子女たちは世間もそうであるように普通の庶民に転じてゆき、あるいは転じきれない様も見せ旧世代はどちらにもこころ騒がせる。これが小津映画が描く世間のダイナミズムの吐き出しになっている。
 そんな彼ら旧い世代が醸し出す雰囲気が一つの街なりなんなりを支配することは、いわゆるお屋敷町ということなら稀ではないが、それは東京では幾分独特な様相、例えばそこの住人として元華族、皇国時代の政官財界で鳴らした貴紳、さらには彼らを徐々に押しのけた成金であるとか、小津らしい庶民には関わらない面々がいるだろう。そんな彼らの末裔も83年ともなれば、その他の人々に溶けておいそれと見分けがつかない。まして、東京の小津人らも疾うに死に絶え、街には美しい風情の代わりにお金の臭いと儲け話の噂が広まる。

 せめて人の姿に小津らしいあの風情を求めるなら、ああ、そこに笠智衆が、と忽ち人だかりとなって、それこそ小津がロケにおいて嫌った状況になってしまうのである。もっとも、当劇中、笠を取り囲んだおばさまたちは小津ファンではなく直近のテレビ番組で笠を認めたとのことで、小津もそのころ既に過去の人だったというべきだろう。
 はて、おばさまたちが知る笠とは何の誰か?その時期、モンテカルロで最高賞を得たNHKのドラマ「ながらえば」であろう。とすれば、監督はドイツにあって笠の演技をヴィデオで眺めていたのではないか?
 「ながらえば」の笠とは一介の元欄間職人、気骨の老人ではない。離れて暮らす病妻との残り時間を怒って悲しむ人に過ぎない。永らえるだけ辛い日々に諦めを付けきれない事に気が遠くなる思いを想像できる人たちが笠を囲んでいる。しかし、それは現代の日本の問題で、あるいはドイツの問題であるかもしれない。小津の手から離された笠は現代を生きている。演じればかつての小津好みを再現できるだろうが今さら誰がそれを求めるだろう。

 監督がしゃあしゃあとパチンコ屋なんかを巡ってみせるのも、まあこんなもんだろうよと言ったところだろう。高いところから見下ろして、ここはいったいどこでしょうと示すのも、小津の東京画もスクリーンの中だけの事、だから、あれらは貴重なんだよということだろう。あれのおかげでかつてない幻想につかまえられて、今こうしてまた現実に立ち返る。
 始まるのは常にここで、映画人が成し遂げるのは誰かに夢を見せる事、その向こうで現実の舵を切らせるきっかけが生まれるかもしれない。なぜなら、東京だろうとベルリンだろうと、この現実が決して美しくも楽しげでもないと見えるからだ。それは元助役にとっても同様だったのだ。でも大丈夫。現実という場がパチンコ屋の座って半畳だの竹の子族の路上生活だの牢獄のような側面で人を捕えようとも、その時その場、息を抜き笑える機会ぐらいあるのだろうから死んでしまうのはまだ早い。
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