イホウジン

ダークナイトのイホウジンのレビュー・感想・評価

ダークナイト(2008年製作の映画)
3.6
“未知”は人を盲目にする。この罠に監督自身も引っかかった?

「未知」という言葉には相対的なものと絶対的なもの、2つの意味があると考える。まず相対的な「未知」だ。これは「既知」の対極にあるものとしての発想だ。当然、既知でないものを目の当たりにした時には人々は恐れおののくが、それでもそれを理解しようとする努力は、相手を知るだけでなく己の感情を律する役割も担う。しかし、同じ語でありながらこれを絶対的なものと解釈すると意味は大きく変わる。「未知」を既知とは断絶された自律したものとして考えるならば、それはいつまでも私たちにとって理解できないものとして認識され続ける。このことのデメリットは非常に大きい。「未知」それ自体が持つ人々の負の感情を増幅させる力が半永久的に機能するからだ。
以上のことを踏まえると今作のジョーカーは、そして何よりこのシリーズのバットマンは、共に後者の「絶対的な未知」としてゴッサムに君臨し続けていることが分かる。いつまでも得体の知れない存在であり続けることで、その恐怖心や尊敬から人々の行動を萎縮させたり、逆に行動を引き起こす原動力になったりもするのだ。しかしこの映画のジョーカーとバットマンがいつまでも得体の知れないものとして描かれ続けることは正しいことだったのだろうか?

前作「バットマン ビギンズ」と今作を観ると、ノーラン版バットマンの裏テーマが“テロ”であるということが推測できる。前の作品では9.11を経たアメリカの利己的な正義感をバットマンを通して表象したが、今作では大衆の不安や恐怖が出来事の負の連鎖を生む(アメリカでいえば9.11→イラク戦争の流れ)という、よりメタかつボトムアップなものを描いた。同時代性という意味で今作はいかにも当時の世界情勢らしいとは思うが、公開から10年以上経って、改めて今作の根本は問い直す必要がある。それは、果たしてジョーカーはそれを「絶対的な未知」と定義することで打倒できるのかという事だ。
実のところ、今作の対ジョーカー戦の“解決”の仕方はただジョーカー自身を捕らえることでしかなく、肝心の大衆の中に拡散された負の感情をどう抑えるかという事については言及がない。今作のジョーカーは「絶対的な未知」でありながらも確固たる身体を持っているという、普通なら有り得ない事態を引き起こしている訳だが、その不可能性に気付いた制作陣がいなかったようだ。社会の現実を描こうとする映画でありながら、肝心のヴィランが現実に存在し得ないものであるということの矛盾はもっと突き詰めるべきだ。そうでないと、いつまでも私たちは「未知」を知る努力を放棄して不毛な報復合戦を実社会で繰り返す事を表象しているにすぎなくなるからだ。
大事なのは、ホアキン版ジョーカーのように“未知の敵”を理解しようと私たち一人一人が努力することだ。例えば今作の背景にあるであろう9.11だって主犯のアルカイダはイスラームの主流とは大きく逸脱したごく少数の集団に過ぎない。しかし私たちがその脅威を無根拠に煽り続ける限り、攻撃対象はイスラーム全体に及ぶし、それがさらにテロと戦争の連鎖を生み出しかねない。
この罠に今作もまたハマってしまったように思える。ジョーカーは最後まで未知であり続け、それは映画に登場する全ての登場人物を幸福にしない惨憺たるエンディングをもたらした。仮にジョーカーが捕まっても、人々が救われない限り第二第三のジョーカーは生まれ続ける。この危うさに今作は気づけていただろうか。
あと今作のレビューで紋切り型に登場する「正義とは何か」という問いかけについては、その問い自体の厨二病臭さから特段の言及はしないことにする。前作の段階でバットマン自身が一概に正義とは言えないことは分かってるし、この問い自体が正義と悪とを分けて考えることを放棄する無秩序を誘発するリスクを持っているからだ。

“未知”は人を不安にする。この時それに飲まれることなくいかにそれを“既知”にしていくのか考えることの重要さを、今作を反面教師的に見ることで感じ取れた。
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