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女ばかりの夜のニューランドのレビュー・感想・評価

女ばかりの夜(1961年製作の映画)
3.8
☑️『女ばかりの夜』(3.8p)及び『お吟さま』(4.2p)▶️▶️
田中監督の後期作品から二本。使い旧されたことばだが、本当に脂がノリ、研ぎ澄まされ、当時も今もトップを走るに至る。
『女ばかり~』は十数年前に観た時も即座に思ったが、最も個性的で同時に近しい、感動的な田中監督作品だろう。おそらくそれは、今年のアカデミー賞戦線を賑わすだろう現在の代表的映画監督のブラナー⋅カンピオン⋅スピルバーグらの、本年作に限らず最高作までのすべてを上回っている、興味⋅共感をさそう作だ。田中監督作品でもとりわけ、先鋭⋅柔軟な展開で時代を超え、魅力⋅入り込みやすさを持ち、そして社会のおぞましさに突き当たる、注目作。内容的に、売春行為は広く社会を包み貫いてる所までと言及、ヘタするとゴダールまでゆくものだが、あくまでプログラム⋅ピクチャー、が、ゴダールを上回る大衆性⋅共感⋅支持に沿っている。脚本も、とりわけ原知佐子の演技指導とその応えで完全に、映画のあらゆる魅力のカバーを成し、真に活きてる。筆致も、旧来の室内のローベースも残ってるが、物干し場⋅急階段⋅レール傍らの角度⋅別世界への誘う力が自由に伸び拡大躍動している。描写の、性器を焼くリンチや、激しい罵り⋅取っ組みあいを女同士でやらせ、品の悪い挑発的メイクをこれ見よがしに主張させ、露悪趣味に嵌まりそうで、それらを呑み込む、演技や世界観の粋の得難い徳や否定すべきもの等無い価値観の存在が、バネをつくり、体験⋅環境が人間を支配⋅リードするのではなく、その逆の可能性をしめしてくれる。質感⋅空気⋅細部⋅小物⋅視線と造型の風格が、ゴチャゴチャ迷わさず見事かつ惹きつけて止まない。構図⋅カット替え⋅カメラワーク⋅アップ押さえ⋅ルック、全てに柔軟で強靭で独自だ。田中は東映を除くと、当時のあらゆる大手を股にかけてるが、相手先の空気を活かし、自己の人間⋅演技⋅女性性⋅社会の、唯一無二のあり方を推し進め、どの場合も頂上を掴んでる。
原の演技の幅~コクと初々しさ⋅激しさと従順さ⋅絶望と光明、は恐るべきレベルで田中の要求を完全にこなしてる(この年は若尾の演技開眼の年だが、代わって演技賞総ナメにしてても、おかしくない)。1つに停滞せず、あらゆる環境とそれへの対応を、何人もの名女優を起用したような、オムニバス的見易さで示していて、しこりは残さないが、恐るべきレベルの問題提起に、一気に突っ込む場が持たされている。
「素人を気取るあいつらは許せない。わたしは金の為に仕方なく売春をした。あいつらは、同じ事を必要もなく平気でやり、そのやましい分私らを貶める。そもそも、売春の何が悪いのか」「人の身体は品物ではない」「しかし、男たちの需要があり⋅応えてるだけかも、その男らも頭脳と身体を社会に売っている」「法律が変わるとこれまでよかったことも、ダメとなるのよ。売春も赤線が廃止されて。でも、ここをくぐった娘らは、正業に就いても、根気続かず、戻ってくるが多いのは、やはり根本の問題点あるのでは」 それが終盤は柔らかく通俗映画の枠での方向性を見せてゆく。「司さんがいくらその気でも、田舎は未だに考えは進んでない中の旧家⋅かつ戦死を免れ、只1人残った男子、結婚は許されはしないのは、理解するべき」「今ほど、私が嘗てやったことを、恥じて後悔し反省してる事はない」・・・「私は1人離れ、私の様な人間でも優しく心を開いてくれた人(たち)がいたことに感謝し、その人との思い出を一生大事に大切に抱いて、これからの人生を真に立て直してゆこうと思います」
赤線廃止後、逮捕された売春婦⋅コールガールらの収容更正施設から始まり、度々そこにたち戻る展開。プログラムを終えて出て行っても、何度も戻ってくる者や、脱走を図ったり⋅内部での対立⋅抗争も、性病でおかしくなってる者も、同性愛や特定者に頼りきった者も⋅支えを失うと自殺も。その中で優秀⋅真面目な1人の記録。安いので主人だけ了解してる⋅雑貨店住み込みも、身元⋅出自が洩れてくると、皆の態度が欲望見え隠れに変わってきて、その上を行ってやめる。今度は端から明かしてと、工場の女子寮に入るも、より乱れ荒廃した工員らは、見下し人間扱いをせず、見るも無惨な傷つけ合いとなる。大学教授+バラ園経営に、出所した妹分と一室も近くに借りて貰って、務め、初めて人間らしい空気に浸れ、そこで働く主人の親戚の男と相思相愛となるも。・・これだけ、率直⋅気取りなし⋅滑らか⋅大胆、それらが意識されない見事な映画は、特に当時は傑出してた筈、気づかずも。
【2022−07.01 4Kリマスター版というので再見。林光の音楽の優しく広範微細な貢献、その年の女優賞若尾を上回る原の愛おしさ·変化と芯には見る度に惹き込まれる。一般映画に近づけた話法だとしても、何故売春は悪いか、人並みの事を果たす根気を失い当面の逃げ場とする性分に染まり抜けられなくなるからでは、それにしても買う男や遊びの為に身体を売り·生活の為の者を蔑む素人女の心の腐り具合は同等以上、しかしその中で結ばれずも勇気と隔たりのない愛と誇りを授けてくれたひとも、それは私の一生な宝·それを汚さぬよう更に潔さを本物とすべく離れ1人で頑張ってみる、といった無理のない積み上げの力は、大衆性と普遍性を踏まえたもの、と改めて好感。】
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場合と気分によっては映画史上ベストテンにも挙げたい『お吟さま』(世評に反して、熊井版も公開時から大傑作としてきた)だが、作者は誰なのか、あまりに凄いスタッフの名前を読んでくとそう思う。脚本⋅音楽、とりわけ天皇宮島の撮影。にんじんくらぶの製作で、少し後に前例のない超大作『怪談』で倒産する前、宮島は存分の腕をふるい、ロー中心は秀吉に召された黄金の茶室のシーンくらいで、宮島好みの俯瞰めショットの割合が多く、人がかなりを駆けつけるのの中間経過カットの入れや、横顔や全図のどんでん⋅90°変の確かさ、部屋らの連なりの捉え追い方、或いは上下半身を自然正確に分け捉える、反応する他者の寄りカット入れもそう。表情の切返しもコンベンショナルに流れぬ。夫婦と侍女の感情と動き⋅接触絡まる、少し移動も沿う、退きのどんでんから90°変縦めの率直さと的確さのもたらす、強いシーンは強く形としても胸を打つ。主観性だけの移動はなく、場や人の動きに沿ってるが、クレーンを使い上下⋅横⋅前後へ動こうが、室内を人の動き+αで追って膨らまそうが決してあたふたすることはない。そよぐ水面や(囲われた)バックの沈みかけた青の強さ⋅深い締まり方。雲間の夕光の染み入り。衣装はケバケバしさを排し、本当に人身に纏った質感があるも、同時に儀式的白⋅ハイソ娘の華麗⋅生活の紺らの模様と浮き上がるものがある。室内の暗さの中の質、野外のシルエットめになるのびやかパースペクティブらに対しても、構えや恐れはない。このペース⋅美と質は、3時間版の『怪談』には今一つ及ばないにしても、普及短縮版の『怪談』を上回るものを与え来る。
俳優の細部のあり方と全体の意志ある動きが、ユニーク万全⋅隙間ない演技支配+解放のこの作家に際立つ威力も強くは伴わず、此れは宮島の作なのか、立派に見えるも。確かにリードしてるは宮島にも見える。しかし、より深く⋅より広く、この世界を動かし、操り、みちびいてるは、やはり田中の宮島的驕りをつきぬけた眼⋅無意識にも見える捌き⋅染み入り取り上げる、俗のほんものの力である。
ゼウスと⋅特定生身の人間への慕い⋅信仰の軋轢が、主人公2人の会話で交わされ、罪人⋅悪魔を意識し、場合によってはそこにある自己を自覚する事こそが、両者を溶け合わせ⋅合一化する、教えへの真の接近と著す、女⋅それに導かれる男の情とまことを、表に露わにせず、おくから染め⋅殉じ上げる、田中の世界の勝利の作でもある事、そうでなくば何か。真に、強制力なく感じ入らせ、深い何かを心当たらせてくれる。「私が信仰してるは、天上のゼウス様ではなく、地上の俗な、只1人の方へのお慕い。悪魔の途と言われようと」「その気持ちをゼウス様にそのまま移す事」「1人の方を慕い続けるが私の信仰。嫁ぐべきか、貴方様に教え請うために参りました」「ゆきなされ」/「2人を騙して遇わせたは、前田家の下で武勲をあげられ⋅復活の目のキリシタン大名の完全排除という治部の企みだったか」「太閤への差出に従った夫⋅新太郎も組み」/「(形有るものでなく、叶わず稔らぬものへの女の操を貫き、)亡き骸の様な私を、お笑いになった侮辱」「貴女のご内儀としての幸せを見せつけられたと思い、嫉妬したのです」「私が恨むのは、神でもなく、(2人を閉じ込めた)雨でもなく、亡き骸の私を呼び出し(この世の想いに引き戻す、避けられる筈の)会える場の決断をなさった貴方様です」「妻は1年半前に亡くなって、教えから二人目の妻を持とうとは考えないが、その事以前より私の生涯を(神以上に)占めているのは貴女への心。私(の内実)は罪人であり続ける(背を向け崩れる)」/「(生きてきて、はじめてその中の歓びを1夜得ただけで、これからもの中心をものしたと充分です)」「(「加賀へおいでなされ」という手紙に、)吟、ゆくがよい。今日は門出じゃ」「屋敷が捕り手に囲まれています」「(魂は決して、太閤にも渡さない、)誇りの為に自決を」「父も直ぐゆく」「(権勢者の為でなく、ひっそり咲く名もない者の為という)茶の途の誇りにも沿う」「生きてあってこその事では?」「そうかも知れない。しかし、命を断つ事で貫ける事もある。あの、関白の意に従わず処刑の女の晴れやかな顔が思い起こされる」
じつは、万全で揺るがないようにみえたタッチにも、微妙な震動が通っている。ラストの祝宴の演奏、取囲みへの気付き⋅反応辺は、ピッチ⋅リズム⋅アップサイズ比が、上がって来るのだが⋅その全体ペースの変調以上に響くは、見掛けまだ平穏なシーンでも、終局まで本心を表に出さぬ右近絡みの(吟からの)パン⋅(立ち上がる)ティルトの速い各カットでカメラが何故か動揺ブレ動く。また、2人だけの小屋で、右近に近づきまた下がる吟のフォローの退く⋅寄る移動で、前者はぎこちなく少しずつ不恰好に沿い動き、意を話した後の後者は対称的にスーッと折返し動く。
キリシタン大名や、堺商人の封じ込めを計る、秀吉=三成の策略⋅横暴が渦巻き始めた、天正年間の末期、戦国期の怪物⋅松永弾正の遺児から母と共に、利休のうちに入った吟の、高山右近との、秘められ(、万代屋に嫁がされ⋅捻れ)た⋅から、政治利用に公然も、より高い誇りを示し、天上の存在への信仰より、地上の愛を貫き通す話。侍女をやってる富士が、主人の吟の、火付け⋅鏡⋅対称意見者⋅深い理解者として、主人公2人の名演と同等⋅というか触媒⋅客観化として、しっかり正直に配置されて、別の輝きを重要に放っている。彼女に限らず、ストーリーテリングだけの為の、描写⋅説明はなく、各々の存在理由を持っている。
それにしても、4日前に『乳房よ~』らを同じく10数年振りに観た時以上にガラガラの客席は、知人から聞いた朝日夕刊年末1面大きく、を反映してなくて驚く。昨年の内に、エリセ⋅カンヌ経由の騒ぎは収束して、日本人伝承の流れは大きくならなかったのか。これだけの実力者、私は初期二本はわりと早く流石に聞かされ⋅観てもいたが、その後の4本こそにある偉業は、必ず国内でも話題を引き継いできた筈で(鈍感な私でも10数年前には気づくだけの大作家)、それが評価が遅れたみたいに云ってるは、海外評価への、今も変わらぬ只仰ぎ見て再検討もなく認容してく卑屈さ、公平な既に存在してた足下の声を拾おうともしなかった怠慢さによるものか(そもそも今回初めて知ったエリセというのは何だ。キアロスタミと並び、この半世紀、映画の正統を甦らせ⋅守ってきた実績くらいは知ってるが、スペイン人が云う前に当然日本人にはそんな事、分かりきった事だった筈)。
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