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アレクサンダー大王のgenarowlandsのネタバレレビュー・内容・結末

アレクサンダー大王(1980年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

(長文です)
テオ・アンゲロプロス作品の中では珍しくメタファーや叙情的映像が少なく、ストレートに実際の事件(ディレシ殺人事件)を演劇的に描いているため、長尺であるが、観やすかった。共産主義の衰退をも描いているが、イデオロギーそのものより、ギリシャの悲劇がテーマの監督である。なぜ山賊がイギリス貴族を殺害した事件を題材にしたのか、山賊が何を表していたのかがポイント。


クレフテスと呼ばれる義賊がギリシャの山岳地帯に隠れ住み、度々裕福な人々から強奪し暮らしていた。この山賊たちが、イギリス貴族を拉致し、身代金(劇中ではイギリス貴族がもつギリシャの土地の解放)を要求したが承諾されなかったので、人質を殺害。この事件で、ただでさえ遅れている国と見なされていたギリシャがヨーロッパから野蛮な国のレッテルを貼られる。

映画の主役は山賊の長で、自称アレクサンダー大王(架空の人物)。戦術に長け、リーダーシップに優れ、人心掌握術が巧かった。しかし独裁者となっていき、人々からの求心力を失っていく。このアレクサンダー大王が振り回されたのが共産主義で、村のすべてを人々の共有のものにし、決定は合意を経なければならなかった。最初は村人は喜んだが、外から村に帰還してきた人々は、先祖代々が苦労して開墾してきた土地を共有され途方に暮れる。

山岳党とも呼ばれるクレフテスはもともと、オスマン帝国の支配に抵抗したパルチザンで、その後のトルコの支配を避け、山に入り、自治的な暮らしをしていた。また、他国の支配に徹底して抵抗して数世紀に渡って闘い続けた民であり、ギリシャの国民からはギリシャ人らしいギリシャ人ととらえられていて、ギリシャ人の魂や根源であると見なされていた。

自由で市民の自治を尊ぶギリシャの魂。近代の歴史からすれば、経済的に遅れ、隣国からの支配等で、ギリシャらしさは博物館の中や、古代の話になっていて、かつて世界に影響を与えた文化的な影響力は影が薄い。

悲劇を描くアンゲロプロスの手法でいえば、自由で市民の自治を尊ぶ魂(山賊たちに綿々と残されてきたギリシャらしさ)に、形は似ていたが、非なる共産主義が入り込み、独裁化(社会主義化ともいうべきか)してしまった悲劇なのだと思った。解放を求め、新しいイデオロギーに希望を託したが、手間のかかる共産主義は民主的自治とは真逆な、中央集権の形にならざるを得なくなっていった。所有と権力の概念をたびたび問われていたが、誰も答えられなかった。

劇中で、共産主義に感化したアレクサンダー大王に、「あなたは利用されているんです」と近親者が進言するシーンがある。村は観光地化され、コスプレの偶像となっていくアレクサンダー大王。この辺りは喜劇だった。

結果的に村人たちは、アレクサンダー大王(の体制も)を殺すが、それは怒りだけでなく、哀しみでもあった。

アレクサンダー大王の遺体がない。

これは特典映像のアンゲロプロスの解説で理解した。テオファジーといい、神を食べる儀式であり、キリスト教であれば、神の血と肉を食べる、ワインとパンである。村人がアレクサンダー大王を(概念的に)食べ、身体化したことを表している。この神はキリスト教の神ではなく、オリンポスの神々であろう。神を食べた人々は、山から降り、現代のアテネ市街地が映る。市井の民の中に、ギリシャの魂が生き続け、希望の火を残していることを示唆して映画は終わる。(子どもだけが残ったと解説にあったが、気づかなかった)

アンゲロプロスの作中でたびたび現れる壊された巨大なスターリンの像。この作品では壊されたアレクサンダー大王の実物大の像なのだが、スターリン像との違いは、血を流しているところ。人として生き、犠牲となったことを証していた。アンゲロプロスとしては、スターリンの共産主義とギリシャが感化されたものは異なるものだと一線を引いたんだと思う。

実際のイギリス貴族殺害事件の目的や背景等の詳細は調べてもわからなかったが、劇中では、ギリシャに持っているイギリス貴族の土地(実際に土地所有していたのか不明)の解放を交換条件にしていたので、アンゲロプロスは、盗賊の要求を通して、支配国からの解放と実質の自立を意図したのではないかと考えた。
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