YasujiOshiba

ゼア・ウィル・ビー・ブラッドのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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リトライのU次。23-12。『その道の向こうに』のラッセル・ハーバードの演技に背中を押され、ずっと気になっていたこの映画をクリック。158分退屈することなく、ダニエル・プレインヴューの物語を追う。

スタートは1898年。井戸のなかのダニエル(ダニエル・デイ=ルイス)。閉塞の描写が秀逸で息がつまる。何を探しているのか。ハッパをしかけ、トンネルの中で導火線に点火。何かが起こると思わせるが、無事外に出る。何かが起こったのはそのあと。引き上げようとした道具があがってこない。爆破。ダニエルは道具を取りに降りる。ハシゴが壊れ、転落、足が変な方向に曲がる。うめきながら目的の石を掴み、ツバで磨く。銀が見える。折れた足を引き摺りながら、銀鉱発見の登記を行うダニエル。見事なスタート。

そして1902年。また井戸のなか。掘るのは銀鉱ではなく石油。ダニエルと相方の男。男には赤子がいる。そしてあの井戸の閉塞。事故が繰り返される。井戸の中の二人。落下してきた道具にあたって死んだのは相方の男。その死とともに石油が出てくる。泣く赤子。あやすダニエル。

1911年。その赤子は10歳近く。ダニエルにひきとられH.W. と呼ばれている。親子のファミリービジネスという看板をかかげ、油田を買ってまわるダニエル。そうなのだ、むさい男がひとりやってきて油田を掘らせてくれといっても信用されない。だから息子を同伴させる。妻はお産で亡くなったことにする。同情を買い、信用も得られる。そうやって土地を買い、油田を掘る。ダニエルというオイルマンは、偽りのファミリービジネスマンでもある。

着実に仕事を広げてゆくダニエルのもと、ポール(ポール・ダノ)がやってくる。この不思議な若者は開口一番、あなたの宗派はなにかと問う。ダニエルは特定の宗派ではないと答える。要件はなにかと聞き返せば、石油が出る土地を教えるという。しかし金をくれないと詳細は教えられないという。信用できるのか。話を買うべきか。ダニエルは決断する。買おう。この小さな跳躍が、さらに大きな油田を掘り当てることになる。
 
20世紀のはじめ、石油開発がブームだった。それまで石油に価値はなかった。せいぜい灯りに用いる鯨油の代用品。しかし、1879年、カール・ベンツが自動車を実用化すると話が変わってくる。自動車はすぐにヨーロッパ中に広がる。アメリカでも1903年、ヘンリー・フォードがフォード社を立ち上げ、1911年ごろにはフレデリック・テイラーの提唱する科学的方法を取り入れ、ベルトコンベアーシステムを導入、自動車の量産が始まる。量産されれば油の需要も増える。安価な油の獲得合戦が始まる。だから石油開発なのだ。

石油は内燃機関の燃料として自動車を走らせ、船舶を大型化し、飛行機を飛ばし、ジェットエンジンが音速の壁を破る。さらに石油からは石油化学製品が作られる。20世紀はプラスティックの世紀でもある。こうして石油は、近代産業のエネルギー源となり、生産と流通を司る。石油を支配するものが、富と権力を握ることになる。

それがダニエルだ。未来の石油王は、ポールの言葉にかけてカリフォルニアのサンデイ家のもとにやってくると、石油が地表に湧き出ていることを確かめる。ダニエルは一家と交渉に入る。驚いたことに、そこにはポールに瓜二つの双子がいた。イーライ(ポール・ダノーの二役)。そのイーライが売却の条件を提示する、自分が牧師をする「第3の啓示」教会に寄付してほしいというのだ。条件を飲むダニエル。いや飲んだフリをしただけで、安価で土地を仕入れると、大規模な掘削を始める。

この寓話のポイントは、原作にも登場する「第3の啓示」教会だ。実際にはそんな教会はない。しかし「第3の啓示」の背景には、19世紀に流行しはじめた降霊術のような神秘主義がある。そもそも第3の啓示には、どこかいかがわしいところがある。

どういうことか。啓示とは神からのメッセージが明らかとなること。聖書の場合、それはまずモーゼの十戒のこと。これを第1の啓示とすれば、次の啓示は神の言葉を伝えるキリストだ。それが第2の啓示。では、キリスト以降に、神からの啓示はあったのだろうか。あるとすれば、それはキリスト以降にあらわれる預言者のこと。その預言者に託された神のメッセージが第3の啓示であり、イーライが立ち上げる「第3の啓示」教会とは、イーライ自身が神からのメッセージを託された預言者とする教会なのであり、イーライこそが「第3の啓示」なのだ。

さすがのダニエルも驚いてしまう。いわゆる冠婚葬祭の儀礼宗教ではなく、あの膝の痛みを悪魔のせいにして除霊を行うミサのように(このときのイーライ/ポール・ダノの迫真の演技は必見)、オカルトがかったスピリチュアリズムなのだ。ダニエルは無視しようとする。しかし、事故が起こる。イーライは寄付の約束を果たすように迫ってくる。そして、事故は自分に工事竣工の祝福をさせなかったからだと責め、約束の寄付もせがむ。しかしダニエルは霊的な力など微塵も信じていない。イーライを往復ビンタで圧倒すると、押し倒してその口に泥まで押し込むのだ。

それにしてもである。ダニエルの怒りは一体どこから来るのか。思うに、このオイルマンは、イーライに自分と似たものを見たのではないか。金のためなら平然とファミリービジネスだと偽るのがダニエルならば、みずからを「第3の啓示」だと吹聴するイーライの信仰にも、偽りを嗅ぎ取ったのではなかったのか。

実際、物語のラストで、イーライの信仰の欺瞞が明らかになる。時は、1929年の世界大恐慌のころ。不況のために各地を回っていたはずのイーライがダニエルを訪ねてくるのだが、それは信仰のためではなく、兄のポールと同じように、お金のためだった。イーライは、株式市場の大暴落により巨額の負債をかかえて、石油王となっていたダニエルに助けを求めにきたのだ。

ここでダニエルは言う。おまえは偽の預言者であり、おまえの神は迷妄にすぎない、と。その偽りと迷妄の匂いを、ダニエルは最初から嗅ぎ取っていたのだ。なぜわかったのか。それは彼もまた偽りと迷妄で生きてきたからだ。ダニエルの偽りは信仰ではなく、迷妄は神ではない。彼の偽りは、息子として育ててきたH.W.のこと。迷妄とは、ファミリーマンならば信じてしまう世間の迷妄。

けれど、おそらくはイーライにとっての信仰と同じように、ダニエルもまた、偽りの息子 H.W. を本当の息子のように扱い、擬似的な家族を本物のように生きてきたのではなかったか。事故で H.W. の耳が聞こえなくなったときの狼狽ぶりはなんだったのか。たとえ手話によってしかコミュニケーションがとれなくなったとしても、学校から帰ってきたH.W.を抱きしめたのは本心からの抱擁ではなかったのか。

そんな「偽の息子」H.W.が少年のころ、その依代となったディロン・フレイジャーが見事だ。その眼差しの真摯な光が、ダニエルの心に拠り所を与えたと思わせてあまりある。

やがて成長した「息子」の依代がラッセル・ハーバード。「手話」が第一言語の俳優だけど、ぼくは先日『その道の向こうに』(2022)の名演を見たばかり。そのサインランゲージのすばらしさ。

大きくなった H.W. は1927年、独立してメキシコで油田を掘ると言いに来る。「父」ダニエルには、そんなH.W.が許せない。「偽り」の息子なのに、いや「偽り」でも息子だからこそ、独立して自分のライバルになるのが耐えられない。だから、愛しているというH.W.に、「お前は本当の息子ではない」と告げてしまう。お前は偽りの息子なのだと告げるダニエルは、じつのところ自分の気持ちを偽りながら、そう言っているのだ。

だから次のカットは、ダニエルとH.W. との思い出のフラッシュバック。ほんとうは「息子」だった。ファミリーだった。それが拠り所だった。それなのに、ダニエルは偽りだと明かすことで、息子を捨てる。すべては石油のためだったのだ。しかたがない。そう言うかのように。

まるでイーライが、負債を返済するために、信仰は偽りだった、神は蒙昧だという言葉を強要され、受け入れたかのように、ダニエルもまた、石油のために、石油王であるという野心のために、ほんとうの息子だと思っているH.W.に、お前は孤児なのだと告げるのだ。

しかし、そう告げた瞬間にダニエルは、その偽りに支えられてきたことに気づいてしまう。捨てた瞬間に、本物の息子だと気が付くのだ。同じ世に、イーライもまた、神を捨てた瞬間に、自分が信じる神のありかに気がつくことになる。その神とはマネーであり、資本であり、ぼくらの力を超えたところにはたらく霊的な力。

マルクスはそれを「物神」(フェティッシュ)と呼んだ。イーライもダニエルも、その霊的な力を自らのなかに呼び込み、その言葉を語り、その「物神」が命じるままに動く。それが「血」を求めるならば、血をもたらせばよい。出エジプト記(7:19)において神がモーゼに告げるように、「血がもたらされるだろう(ゼ・ウィルビー・ブラッド)」(出エジプト記 7:19)。

だからこそ、ダニエルが手にしたボーリングのピンのもとに、「物神」の望みどおり、血がもたらされる。ダニエルが「わたしが第3の啓示なのだ。わたしが主がお選びになったものなのだ(I am the Third Revelation! I am who the Lord has chosen!)」と言うとき、彼の「主」とは、石油であり、資本であり、物神にほかならない。その霊的な力を体現したダニエルは、レーンの脇に広がってゆく血の沼を覗き込む。心配した執事に「大丈夫ですか?」とたずねられれば、答えはこうだ。「俺は終わった (I'm finished)」。

この破局、それは石油=資本(物神)の支配と矛盾の全面化とともに訪れるものの暗示。ひとつは1929年の恐慌、もうひとつはその後に全面化してゆくエコポリティクス(ナチズムとファシズム)。そして2回目の世界大戦の勃発。そして戦後、冷戦が終わり壁が崩れる頃までには、預言者は役割を終え、理解不可能の数式で神託を告げる市場が、モニターを通して神託を告げる。

ぼくは、あのダニエルの破局(俺は終わった/I'm finished)を、そんな黙示録を始まりを告げるものだと読んだ。それにしても、アンダーソンの映画、実に刺激的。ついパゾリーニの『石油』を思い出してしまうし、グラムシの「アメリカニズムとフォーディズム」(1932)までもが気になってくるではないか。

フォーディズム(フォード社のベルトコンベア式生産様式)はイタリアのフィアット社にも導入され、フィアット・ゼロなどが生産されるのだけど、その背後にあるのが、アンダーソンの描くダニエルのようなオイルマンなのだ。

そしてまた、そのあたりの分析に、柄谷行人の交換様式を召喚する誘惑にもかられる。とりわけ、偽の家族の問題。ダニエルは偽の息子を利用するけれど、そのダニエルは偽の弟にだまされるという展開。そこにパイプラインの建設がからむ。

交換様式で言えば、家族的な互酬制はA、主人と臣下の保護と忠誠の交換はB、そこに資本=石油=銀=金のような物神(フェティッシュ)の働きによる交換様式Cが絡んでくる。

アンダーソンは、そのすべてを見せつけておいて、それが破局に向かうことを示そうとする。しかし、交換様式Dの到来可能性はないのだろうか。可能性が見えないところで到来するのがD。だとすれば、むしろ可能性があると見れば良いのだろうか。

いやはや、じつに刺激的な作品。ほんと読書へと誘われる映画とは、こういうのを言うのだろう。
YasujiOshiba

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