サマセット7

サムライのサマセット7のレビュー・感想・評価

サムライ(1967年製作の映画)
4.9
監督は「いぬ」「影の軍隊」のジャン=ピエール・メルヴィル。
主演は「太陽がいっぱい」「若者のすべて」のアラン・ドロン。

[あらすじ]
パリにて。
一匹狼の殺し屋、ジェフ・コステロ(アラン・ドロン)は、アリバイ工作など、細密な注意を払い、バーの支配人を射殺する「仕事」に挑む。
しかし、仕事を済ませた後、思わぬ窮地に陥り…。

[情報]
1967年公開のフランス・イタリア合作映画。
ジャンルは、フレンチ・フィルム・ノワールと評される。

1960年の「太陽がいっぱい」で世界的に人気を博したアラン・ドロンは、一時アメリカに滞在するも、1966年にフランスに帰国。
帰国後制作されたのが今作である。
当時のアラン・ドロンは、日本において2枚目スターとして大いに人気があった。
今作で殺し屋コステロの愛人を演じたナタリー・ドロンは、1966年よりアラン・ドロンの妻だったお方。1969年には離婚している。

今作は、現在においても非常に高く評価されている作品である。
ウォルター・ヒルの「ザ・ドライバー」や、ニコラス・ウィンディング・レフンの「ドライヴ」など、後世の作品に影響を与えた、とされる。
なるほど、ドライヴの雰囲気に近いものがある。

[見どころ]
水墨画のような、抑制された映像美。
セリフや音楽を極力排した、引き算演出の極北。
アラン・ドロンの、彫像めいた美貌。
全編にわたりストイックに表現される、殺し屋の掟と美学。
全体を通して溢れる、非情で孤独な、シビれるようなプロフェッショナルのロマン。

[感想]
何だろうか、この作品の凄まじい魅力は。
圧倒的な、「この映画の良さが理解ると、絶対、カッコいい」感。

テンポ、映像、演出はアート映画のそれに近い。
退屈スレスレの遅さ。
抑えた色彩。セリフと音楽の少なさ。
しかし、殺し屋のサバイバル、という主題のエンタメ性たるや。
この謎のバランス。

今劇場にかけても、到底成立しそうにないが、アラン・ドロンの存在がこの映画を成立させている、のか。

冒頭、部屋が、黒い。
モノクロ映画を見ているかのようだ。
そこにフワッと巻き上がる、タバコの煙。
どうやら、ベッドに寝そべる者がいる。
ゆったりした時間の使い方。
画面に表示される文章。

「侍ほど深い孤独の中にいる者はいない。
それは、ジャングルの虎以上だ。武士道より」

ようやく立ち上がる、殺し屋の整った美しさ。
氷のような無表情。
鳥籠の鳥。それ以外はがらんとした空虚な部屋。
コートと、帽子。
静かな、所作。
ひたすら、冷え冷えとした映像が続く。

そこに分かりやすいエンタメ性はないが、引き付けられる。強烈に。

やがて、殺し屋の行動が理解できて来ると、追う者と追われる者のサスペンスが駆動を始める。
静かに、ゆっくりと、しかし、確実に。

印象的なシーンが多い。
車の調達の一連の流れ。
殺しのシーン。
警察署での面通し。
地下鉄での追跡劇。
陸橋。

殺し屋は粛々と動く。
ただ己の中の掟だけを頼りに。
他者と言葉を交わすシーンはいくつかあるが、男は感情は交わさない。
それが掟だとでも言うように。
鼻につくウェットさは皆無だ。

鮮烈なラストシーンで、彼が思ったのは何か。
水墨画の如き作品の中で、一瞬だけ仄見えるロマン。
余韻が深い。深すぎる。

バイオレンスも、アクションも、ドラマも、あるにはあるが、最近の作品に比べて圧倒的に控えめだ。比較にもならないかもしれない。
にもかかわらず、惹きつけられるのはなぜだろうか。
虚無感?かっこよさ?クールさ?
後の作品に影響を与えたのもわかる。
このスタイルは、癖になる。

[テーマ考]
今作は、「プロの殺し屋が自らに課したルールを守る様」を描いた映画だ、と思う。
そこにあるのは、美学、スタイル、掟、生き様、といったものだ。
それは、孤高なプロフェッショナリズム、というべきものかもしれない。

タイトルの「サムライ」、冒頭引用される新渡戸稲造の「武士道」の一節は象徴的だ。

誰に理解されなくとも、自らに課し、死んでも守る、戒律。
その孤独と固い意志。
そこに、シビれる。憧れる。

[まとめ]
軽い気持ちで見始めたら、とんでもなく刺さってしまった、60年代フレンチ・フィルム・ノワールの逸品にして、独自の美意識に満ちた殺し屋映画の傑作。

冷静に考えると、色々とやり過ぎて、滑稽の域に入っている部分もあるような気もするのだが。
あるいは、「この映画のこと理解できる自分SUGEEEE!!」というスノビズムが自意識に働きかけている可能性も大いにある気もするが。
いいんだよ、そんなことは。

アラン・ドロン、殺し屋、パリ。
そんなの最高に決まっているのだ。

明日からコートの襟を立てて歩きそうな自分が怖い。