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子供の眼のotomisanのレビュー・感想・評価

子供の眼(1956年製作の映画)
4.1
 1956年の修くん、戦争がなかったらなぁ。
 と云う映画ではないのだが、おそらく戦後生まれであろう修くんではあるものの、もし戦争が無かったら、母ちゃんは死ななかったかもしれないし、父ちゃんも新母ちゃんは要らないわけだし、デコ姉ちゃんも気兼ねなしにお嫁に行けるだろうに、なのである。

 しかし、戦争はあったし、おかげで焼け跡生活の中で母ちゃんは死んでしまい、デコ姉ちゃんが嫁にも行けずに母ちゃん替わりでいなくちゃならない。新母ちゃんの一家も朝鮮から引き揚げて苦労して家業の歯科医院を立ち上げるが、大先生は半身まひの残る大病で新母ちゃんは実家と歯科医院にべったり。不自然な合成家族二世帯別居はなんだかきな臭い。

 親孝行が当たり前以上を要求する時代である。新母ちゃんの実家の無理無体を新母ちゃんがどう躱して合成家族の矛盾を裁くだろうか、別に妙案なんかあるわけじゃない。ただ、わたくしは夫についてまいります、と云うだけの事である。
 しかし、その決心は容易ではない。そこに新母ちゃん戦後10年の苦労、引き揚げから焼け跡での自立と家族の闘病という苦労の記憶がこころの足枷となるのを甘んじるか否か、どちらを選ぼうとどちらかの世帯に対しこころ置きを残す事の重さを忍ばざるを得ない事になるに違いないのだ。

 そもそも新母ちゃんは歯科医として立派に自立可能な女であるわけで、それは戦後社会の大テーマでもあるはずだ。そんな女が親孝行圧力を撥ね退け、家庭人への安着も脇に措いて我が道をゆく、でいいワケだが、敢えてそれを選ばないで修くんの新母ちゃんとなる道を選んだ事情は何だろう?
 それを探るのもまた、この映画の本題ではないので、女性の側からすれば歯痒かろう。この映画、今一つ顧みるべき理由に乏しいとなる所以ではないか。

 情に乏し気なこの新母ちゃんに寄り添おうと修くんは犬の「もく」を捨て、プチ家出を図りもするわけだが、大人は大人の事情を通してそれぞれ、父ちゃんと新母ちゃん、デコ姉ちゃんと大木実さんは結論に達し修くんを置いて行ってしまう。
 その事態を多分に悲しむべき事と直感するのが子どもの子どもたるところである。大人たちが何らかの合意に至ったその身勝手を子どもなりに分かる。

 ここが修くんの大人への第一歩というべきところで、大人の居場所に「来い」と呼ばれても応じない。子どもには子どものあり様があって、この大人たちはそれに寄り添えるか?を反問するのである。
 子どもは大人の後に着いて行く。これは子どもの処世であるが、大人は子供について来てくれるか?これを問うのも、別の処世というべきだろう。自分は何者か自分だけの理解や知識、経験では問いとして立てきれない子どもだから、大人により認められる事がどうしても要りようになる。
 大人たちから去って大人たちに見出される事が、修くんとしての、再編された新合成家族3人の鎹となってやり直すために欠かせないのである。

 しかし、あの修くんが出て行った街はずれの宵闇でふと、修くんを呼ぶ声が父ちゃんのそれだけである事に気が向いた。あの新母ちゃんはその時どうしていたのだろう?
 その不在が伝える不穏さを意図しなかった、と云うなら嘘だろう。あの新しい女、自立可能な新母ちゃんと共に迎える新時代、新天地でこの合成家族3人がやっと始まる事の多難さを実はあの母の沈黙が教えているようだ。
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