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ゴーストワールドのSQURのネタバレレビュー・内容・結末

ゴーストワールド(2001年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

イーニッドとレベッカは友達。高校の卒業式で、クラスメイトのことを2人で密かに馬鹿にする。2人が馬鹿にする対象は、ラリって事故にあったことをきっかけに感動的な卒業スピーチをしたクラスメイトや、高校を卒業しても連絡を取り合おうと話しかけてくるフレンドリーなクラスメイトだったりする。つまり、「誰かの真似をして自分に酔いしれているタイプ」で、いわゆるホールデン・コールフィールド系女子なのだ。そういった「斜に構えた」2人が、普通とかルールとかそういった抑圧に逆らって滅茶滅茶をやる映画なのかな、と思って観ていくと、この映画は一味違うということが段々と分かってくる。
まず面白いのは、イーニッドとレベッカは似た者同士のようで、根っこのところ、あるいは枝葉のところで結構違うのだというところだ。主人公のイーニッドはとにかく普通なことが嫌いで、逆にひねくれているものとか、みすぼらしいものとかが好きなのだ。一方で友人のレベッカは、ダサいことが嫌いで、だから適当に同調するクラスメイトとも相容れなければ、クラスの隅っこの陰キャのことも別に好きではない。このことは冒頭の卒業パーティのシーンからも、2人の会話の中の小さな違和感として暗示されていたりする。さらにイーニッドは、レベッカの容姿が良いこと、というよりも男性からの注目を集めていることに少しだけやっかんでいたりもする。もしかするとイーニッドの中では、自分は卑屈だから冴えない男を好きになるのかも、とか考えてしまうこともあるのかもしれないが、そこまでは映像からは読めない。とにかく、そういった2人の間の、基本的には仲間で同士だけれど、微妙に相容れない感じが、映画の進行とともに明瞭になり、2人の道がわかたれていく。
イーニッドは、やがてレコード収集者のシーモア(サリンジャーリスペクト?)に出会う。イーニッドにとってシーモアは、社会の内部の人ー外部の人、偽物の人ー本物の人、で言えばそれぞれ後者の存在であり、一種の憧憬として、あるいは仲間を求めて惹かれていく。彼女は「真の外部の者」であろうとし、またそのために「真の外部の者」であると彼女がみなしたシーモアに惹かれる。だがそこにはイーニッドが知らず知らずのうちの認めてしまった欺瞞がある。シーモアは、イーニッドと行動を共にするが、そこで社会の内部の人ー偽物の人であるはずの女性と交際を始めてしまう。もとはと言えば、シーモアが新聞にその女性ともう一度出会いたいという「自己陶酔的な」投書を行ったところから始まっており、初めからシーモアは「真の外部の人」ではありえなかったわけだが、途中でイーニッドはそのことをすっかり忘れてしまい、そしてシーモアが真剣に交際を始めたところで、ようやくそのことを思い出す。イーニッドの「真の外部」を目指す夢はそこで終わってしまう。これは本来であれば、当然の帰結であると言える。なぜなら、あらゆる人間の嗜好や言動はその規模に違いはあれど誰かの模倣でしかありえず、真の外部など存在しないからだ。これがイーニッドの最大の欺瞞であり、この映画はその欺瞞の決着に向かって進行していく。
真の外部であることをアイデンティティの拠り所としていたイーニッドは、シーモアの陳腐さを突きつけられ、自己同一性の危機に迫られる。イーニッドはシーモアの家に押しかけ「自分の夢はこの街を出て自分ではない誰かになることだ」と話す。このことはまさしく、シーモアの内包する偽りの外部を突き付けられたイーニッドが、さらにその外部を目指そうとすることを、「街」というメタファーとともに表現した象徴的な台詞だ。そしてそのことを「偽りの外部」でしかないシーモアにしか話すことができないということ、そしてシーモアがそれを聞いて共感し、さらに彼女のことを大切に思い、そして性行為をしてその想いを伝えんとするという、かなり複雑なことが行われる。シーモアは内部ではないものとしてイーニッドに共感し、しかし、真の外部を目指すという不可能な夢を見るイーニッドを慰み、そしてロマンティックラブイデオロギーという模倣でしかありえない行為を通して彼女とつながろうとするのだ。そして、それは当然の結果として、彼女の救済とはなりえない。彼女は真の外部によってしか救われえないからだ。
彼女の救済はどこにあるのか。救済への活路は、一旦は「来ないバスを待つ老人」という社会の外部に存在する別の対象へと向けられる。しかし老人もまた「いつまでもここにいるわけではない。街を出るよ」とイーニッドに話す。彼女の偽物ー真実といった対立の世界はここで完全に崩壊する。ありきたりな絶望でしかないが、それは逆説的にぬくもりのある結末だ。
だが、この映画はそこで終わらせてはくれない。老人がバスに乗るのをイーニッドは目撃してしまう。一度は崩壊した「真の外部」の幻想が、ここで顕現してしまう。それは隘路への甘い誘惑だった。イーニッドがバスに乗り込むことで、この映画は終わる。ただこの終わり方は、非常に後味の悪い終わり方のように思われる。なぜならば、そのバスは、彼女のためのバスではないからだ。イーニッドは、自分だけの外部を求めていた。そういったイーニッドには、彼女だけの特異的な救済でなくてはいけない。そのことはイーニッドだって痛いほどにわかっていたはずなのだ。分かっていながら、イーニッドは老人のためのバスに乗りこんで、この映画から、この舞台から退場することを選んでしまう。他者に追随するというもっとも忌み嫌っていた救済を選ぶ。他に道がなかったからだ。しかしそれは偽の救済だ。この映画のラストシーンは、最後まで真の外部を信じ続けたイーニッドの一つの勝利であり、同時に諦観なのだ。それがこの映画の、社会の外部を夢見た者に送る結末だ。
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