めちゃめちゃ良かった。タイトルは知ってたけど内容は全然知らなくて、でもずっと見てみたくて、よくわからないまま見に行った。でもぼんやり思ってたのとはだいぶちがったかな。最後まで「あーこういう映画ね」ってなることがなくてそれもよかった。最後のほう、泣いてしまった。自分のまわりで、なにかがよくなろうとしているとき、うまくいきそうなとき、変化がうまれようとしているとき、それをぶちこわしにしてしまうのが、私にもわかるから。最後のそのあとが気になるけどそれは何も言わないでくれたほうがいい。私は希望でも絶望でもない逃避だとかんがえたけどその先で希望か絶望か、なにかが生まれるのかは、わからない。なんか全然言葉がでてこないけど大好きな映画になった。すでにもう1回みたい。もうずっと着ていない古着のワンピースをひさしぶりに着たくなった。珍しく一度も気を失うことなく映画館で映画をみれた。
他の作品の名前出すのあんま良くないかもしれないが自分の中でしっくりきたんで言うけど、今年観たヴァージン・スーサイズが好きじゃなかった(ほかのソフィアコッポラ映画は好きなのもあるのに)のが、これ観てなんか腑に落ちた。若さの残酷さとかあやうさとかいうのなら、私にとって、このほうがずっと本当だった。あくまでも私にとっての本当だしそもそも本当であることがかならずしも良いことではない。美しい嘘のほうがずっと価値をもっていることもある。それでもあんなに美しいものではなく、この目を逸らしたくなる痛さ恥ずかしさのほうが苦しくて私に響いた。
それからこれ書いてて思ったけど、やっぱり私は、あのバスの行く先は黄泉の世界ではなくて、「ここではないどこか」でもなくて、これからも続いていく、単なる現実だと思う。それは救いでも絶望でもない。ただ、続いていくだけ。そこで何が起こるか何が変わるかは考えなくていい。なぜなら私の人生も同様にただ続いていくだけのものだから。意味無し。ちょっとリバーオブグラスのラストを思い出す。
(パンフレットをすこしよんだ)「ゴースト・ワールド」が、イーニドが忌み嫌うこの本物を失った世界のことならば、どこにいっても同じような現実しかないだろう。そのなかで本物だと思えるものを(今回はそれがシーモアだったわけだが)見つけるしかないのだろう。私は、「ゴースト」はイーニドかもしれないと思った。それもイーニド自身にとっての。まわりが変わっていく中で変われない自分自身。私が必死に保とうとしている私って一体なんなのか、そんな大したものじゃないんじゃないか。それでも変われない。パンフレットにのってる感想をよんで、このレビュー欄を少し見て、「思春期ならではの……」とか、「若さって痛くてまぶしいね」みたいなことを言える大人たちに苛ついた。羨ましくもあったから。彼女の身近な人に対する態度はよくないけど少なくとも自分自身にはけっこう正直だったんじゃないかと思う。私は他人にうそをついたとしても自分には正直な人が好きだ。なんか自分でもなにが言いたいのかわからん。いつか私もそっちに行ってしまうのでしょうか。その前に出会えてよかった。もう1回みたいなー