せいか

ラビナスのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

ラビナス(1999年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

(自分用雑記メモ感想)

前置き。この時代のアメリカの軍服めちゃくちゃ好みである!!!!!前置き終わり。


Ravenousとは、「極端な飢えをいやすための貪婪さを暗示」する言葉で、むさぼり食うとか、がつがつしているとか、きわめて強欲であるとか、渇望している、飢えているといったような意味があるらしい。もとは古期フランス語の「ravineus略奪する」からきてるんだとか(ランダムハウス英和大辞典より)。

本作はインディアンないしネイティブアメリカンに対してイメージされるカニバリズムを扱っており、また、アメリカ・メキシコ戦争を軸に、増長していくアメリカの貪婪さを表現したものだといえる作品だと思う。連鎖する飢えとそれを満たす行為のおぞましさが本作では描かれている。そしてある種の楽園を追う作品でもある。西洋社会、欧米社会、白人社会への特大の風刺作品なのである。
あと、ここのところたまたま似たようなテーマのものばかり観ていたが、またしても類似するものを観ることになっていたのかと驚きもした。
というわけで、単純にグロテスク趣味の作品というよりは、こうしたところにテーマを込めた上で展開しているのだろうということは意識して観るものなのだろう。私自身、視聴前は単なるグロホラー寄りの作品かなとだけ思っていたので、嬉しい誤算だった。


舞台は1847年のアメリカ・メキシコ戦争のアメリカ側の陣営で主人公が表彰されるところから始まる。
   → この戦争は前年46年から勃発したもので、両国の境界紛争に端を発するもの(※さらに遡れば、前年にメキシコの旧領土だったテキサスがアメリカ側に加盟したことや、アメリカ側がニューメキシコやカリフォルニアを買収しようとしていたことに端を発する)。アメリカ側が領土拡張をもくろんだものなので、これはメキシコへの侵略戦争だといえる。48年にアメリカの勝利で終わり(なので、映画のこのシーンはまだ戦争のさなかなのである)、これによってアメリカはカリフォルニアに至る地域(つまり最初から狙っていたニューメキシコとカリフォルニアをいくらかの支払いをしつつ得る)を獲得した。メキシコはこれによって領土をほぼ半分も失うことになり、対するアメリカは太平洋沿岸を独占することができて太平洋及びアジアへ進出しやすくなった。終結の契機となった条約締結直前にはカリフォルニアで金鉱が発見され、ここからゴールドラッシュも始まっていく。米墨戦争ともいう。余談だが、いわゆるペリー来航は1853年のことになる。
祝いの席では一堂に会してでっかいステーキ肉が振る舞われてみんなが美味しそうに頬張る中(いかにもアメリカ的な粗野なステーキで美味しそう)、主人公は追い詰められたような様子でなかなかフォークが進まない。脳裏によぎるのは戦場の散々たる光景で、血と肉が転がり、辛うじて呼吸をするような酷い様子のものなのである。結局、一口として食べられないまま、踵を返して退席した大尉は嘔吐する。そうしてタイトルカット。主人公に向けられる言葉は、「お前は英雄ではない」という冷たい言葉になるのである。
えらい人は祝いの席に臆病さを露顕させて水を差した彼を「できるだけ遠くへ追い払う」として、カリフォルニアのスペンサー砦(いわゆるスペンサー山のあたり)へと任命する。まさしく今回の戦争の発端となっている現場ど真ん中への派遣といえるだろうが、実際のそこは自然豊かな開けた山麓で、かなり牧歌的なものであるので、むしろ僻地に左遷したというべきなのだろう(のちにはっきり指摘される)。木造の古い小屋に独りで通された彼はとにかく戸惑う(隊員自体は少ないが、主人公含め8人配備されてはいる。中には原住民も2人いる)。
   → 余談だが、この時に主人公が着ているコートのデザインが格好いい。ケープとコートが合体した感じ。かわいい! 別の登場人物の似たような型の(?)コートは裏地が赤でかなりかわいい。軍服なのだが、どこで売ってんのと声かけるレベル。
小屋の中で過ごしていると、彼は、戦地のことを思い出す。明らかな劣勢の中で兵士たちは「ボイド中尉!」と彼に助けを求めるが虚しく死んでいく。その中で彼は臆病風に吹かれてそっと地面に横たわって死んだ振りをして耳を閉ざすのだ。こんな調子で、最初の方は彼の栄光とされた戦いの様子と現在とが行き交いながら展開し、じわじわと彼がどうして表彰される戦果を上げたかを暴いていく。
   → ボイドの綴りは名前として用いられる「Boyd(光の意)」のようだが、もしかしたら、「void(空虚な、無駄な)」を連想するようにしてるのかもなーと観ながら思った。
死体に扮した彼は敵たちに運ばれ、他の仲間の兵士たちの死体とミルフィーユ状にされて台車に乗せられて運ばれる。運ばれた先は敵が基地としている所だった。そして彼はそこで自分の上に重ねられていた、半分頭が吹き飛んだ隊長の死体が流す血が己の口の中へと伝うがままにそれを飲み下して生き延びるのである。そうして「何かが変わった」と、台車の中から這い出ると、気を抜いていた敵陣に襲いかかったのである。それは臆病で情けない行為ではあったが、結果的には敵を制圧した行為でもあった。主人公もこうして得られたら勲章は臆病だから得られたものだったと自覚している。
この部隊のリーダーには「逃亡に乾杯」と言われて杯を交わし(ここへの左遷も含まれているだろう)、酒は逃げ道だと語る。とにかく主人公の敗走っぷりが短い間にゴリゴリ押されるのである。
「我々は世間から逃れてここへ だが ここからも逃れたくなる どこへ逃げてもーー 前より悪い場所かもしれん」ともリーダーは語る。

ある日、コルホーンと名乗る謎の人物が拠点の前で行き倒れており、これを介抱して助けたことから、この牧歌的な僻地にも変化が訪れることになってしまう。
彼は戦争とは関係なくこの地を移動していた小グループに属していたが、そのガイドのアイヴス大佐が梶を誤って冬山の洞窟で過ごすことになり、やがて食糧は尽き、牛、馬、犬と、連れていた動物たちも食べていき、それでも足りなくなると、ベルトや靴をかじって飢えを凌いできたという。だが、ある日、仲間が一人死ぬとその死体を食べ始め(しかも少しずつ食べずにむしゃぶりついたようである)、事態はさらに悪化したのだと語る。今度の飢えはただの飢えではない、野蛮なものなのだと。大佐は次々と他人を殺すようになり、気がつけばコルホーンと大佐と女性の三人だけが残っている有様になってしまった。このままでは自分が殺されると、「私は恥ずべき卑劣な行為をとった」と説明し、女性を置き去りにして恐怖のために逃げ出したのだと語った。その女性(と大佐)はまだ洞窟のいるのを知った一行は、彼女たちを救うために洞窟へ向かうことにする。洞窟までは3、4日で着くという(ここで疑問を抱くべきだとも思うのだが、それはそれ、あくまで伏線というやつ)。
準備が進む中、慌てて原住民の隊員が「ウィンディゴ(wendigo/windigo)」の説明をする。曰わく、北の先住民の古い神話で、敵の肉などの人肉を食えば、肉を通じて相手の強さや特質、魂を自分の力にするのだという。そしてその捕食者の飢えは渇望になり、飽くことを知らなくなってしまうのだと。これは食うほどに悪化していき、食うほどに強くもなるものだという。
   → 主人公が先の戦いで隊長の血を飲んでから「変わった」という話もここに繋がる。彼もすでに渇望を感じつつある肉体になっていたのである。
   →ウィンディゴは実際にアメリカ大陸の北部あたりの原住民たちの精霊として伝わるもので、この名を冠した精神疾患(ウィンディゴ症候群)もある。元来は存在を臭わせてくるだけで鬱陶しい存在らしいが、本作で説明されたようなものも説明される。クトゥルフでは同名の神話生物もいる。精神疾患のものの場合は単なる栄養不足こらそうなるようである。カニバリズムと他者の力の吸収は別にウィンディゴに限らず、原住民や西洋人たちが自分たちよりも下に見る文化に対する話の中でよく持ち出されるものでもある。
「白人は日曜ごとにキリストの体を食う」という指摘もかなり示唆的で、領土拡大を目論むこの大陸のさなかにあって、欧米社会の特質とはどこにあるのかを明かす発言でもあった。
コルホーンと共に、補給にでた2人と基地に残る1人を残し、主人公を含む他の隊員は全員捜索班に加わる。
   → ちなみにこのときのリーダーの服装もなかなか好きである。紺と赤の組み合わせが好きなのよな。
道中、崖から1人の兵が落下して腹部に裂傷を負うが、捜索が優先される。その日の晩には夜闇に紛れて血の滲む腹をコルホーンが舐める問題が起きる。
   → ここで彼は何となく吸血鬼を連想させるようにもなっている。吸血鬼とカニバリズム、先住民的な力の吸収や欲望への渇望の暗喩などもよく言われるものなので、そうした周辺のあれやこれやも意識してシナリオに採り入れているのだろうとは思う。
とはいえ、なんだかんだで殺伐としながらも無事に洞窟にたどり着くと、主人公と兵隊の二人で中を散策するが、そこでは全員の死体が無残な骨のみが遺されており、コルホーンこそが話の中で悪し様に語られていた当の本人だと気がついて慌てて引き返すも、すでに彼はそこで待機していたリーダーや兵たちを攻撃している。待機組の最後の1人(腹部に怪我を負っていた兵士)は遊びの狩猟のように追い回された末に腹をかっさばかれるようにして一番惨たらしく殺された。
残った2人はコルホーンを追うが、崖まで追ったところで片方は投げられた刃物を胴体に受けた上に崖下へ落下し、主人公は唯一の銃弾をしっかりと当てられず、肉弾戦を恐れて自ら崖下へ飛び降りる。普通ここで死にそうな高さだったが木がクッションになったということでこの時点で二人とも生きており、斜面を転がるうちに主人公は先に落下していた兵士を巻き込んで転がって穴に落ちる。この兵士も恐ろしいことにまだまだ元気で、穴の半ばに引っかかって逆さ吊りの状態で、意識が混濁したまま主人公の首を絞める。だいぶホラーである。そして落下と共にどうやらやっと死ぬ。コルホーンはなんと崖下まで追ってきて二人を捜すが、見つけられずに去っていく。こわい。
主人公は片足の脛から骨が飛び出すほどの骨折を負っており、夜には荒療治でこれを治療し、仲間の死体を枝で覆って木の根を齧って死体からはコートも奪ってひもじく過ごしていく。その一方でコルホーンは殺した兵を洞窟の奥へと引きずり込み、悠々と肉を貪っている描写が続く。そしてついに主人公は隣でにやついたまま死んでいる兵士の肉に手を出した末に自力で脱出し、基地に帰るのである。

基地にはすでに買い出しに出かけていた2人も帰還しており、主人公はもう1人の原住民のほうにウィンディゴの止め方を尋ねるが、止まることはないから命を捨てるしかないと言われる。引き続き深く取ろうと思えばここも示唆的な回答である。
しばらく後に外から小軍隊がやってくるが、彼らが捜索したときにはすでに殺された兵士たちの死体もなくなっており、洞窟の中も何もなかったという。おかげでボイドは狂人のように見られ、彼の主張は曲げるようにと無言の圧力を受ける。
そしてリーダーだった大佐の臨時代理として現れたのが、コルホーンにそっくり(というか本人)のアイヴス大尉である。
   → 初登場時もそうだったが、右手首にロザリオを巻いているのがなんとも皮肉なのだなあ。
外からやってきた人たちはそうしてそのまま去って行き(普通、主人公は危険分子として連れて帰りそうなものだが、それはそれ)、殺伐とした基地生活が幕を開けることになる。主人公は日々の生活を営む兵士を眺めながら、自分が彼を襲ってその肉を貪る妄想もしてしまう。立派なウィンディゴ症候群である。やはり肉は食べられないままで(洞窟探索以前はどうだったかは不明だが)栄養不足も起きてるだろうしな。その点、アイヴスは普通に食べていたのだからなかなかである。正気の狂気だ。
主人公は今までとは打って変わって、ナイフを肌身はなさず握りしめてアイヴスを監視するし、積極的に敵意を見せる。この変異はたぶん、作中がいうウィンディゴを信じれば、好戦的な兵士の肉を食った影響だということになるだろう。
なにはともあれ、二人きりになると途端にアイヴスは素直に自分がコルホーンであることを明かし、主人公が去ってから、彼が食べた兵士の死体も発見した(そして食った)ことを静かに語る。そして、人の肉を食うまでは結核で弱りきり血反吐を吐いているようなとにかく多方面に軟弱な人間だったことを打ち明ける。そして療養所へ送られる時の道中で、先住民から人肉補食の話を聞いたという。なぜ話すのかというのは野暮というものである(これは自己中心的に他者もとい下に見た文明の人間たちを獣として捉える西洋社会の文脈の物語なので)。なにはともあれ、彼はその先住民を食すことで証明を得たという。それから地続きで洞窟での話になるのだとか(主人公に攻撃された肩の傷が治っていたのも食人のためか。なら、主人公が食人をした途端に自力で下山できるほど体力を得たのも、単純に食事をしたからというだけではないのだろう)。
アイヴスは人肉を食べてもなおそれにあらがおうとする主人公が理解できず、罪だと言われると、「“道徳”か それは最後の砦だ 臆病者のな」と言い返す(これは直前にカニバは最後の手段だと言った主人公の言葉と対応する)。
「みなぎる力 勇敢な者の雄々しさが体中にほとばしる それが衰えるのは寂しい 力強さが 次第に消え去ってゆく 再び強くなるために殺したいと願う 言うまでもない 君は今 そう感じている」なんかもかなり人間という種の野蛮な道程を言い表してもいるセリフだろう。このへんはもっと直裁に言えば、作品世界のさなかにあるアメリカの有り様を言い表してもいる。
主人公は仲間たちに止められ、その後、馬小屋の馬たちが惨殺され、兵士の1人も殺されているのが発見される。犯人として矛先が向くのは主人公である。主人公を軍の監獄へと送るために原住民兵士の女性は送り出され、主人公は鎖に繋がれる。
そしてアイヴスが悠々と次の材料の横で作るのはシチューであり、彼は潜んでいた、死んだと思われていた大佐によって殺される。彼が昨晩、馬も兵士も殺したのである。洞窟に引きずり込まれた後、瀕死の彼はアイヴスに肉を食べさせられたという。死への恐怖は引き、代わりに最高の気分になったのだと、アイヴス同様にそうしたことを彼は淡々と語る。主人公は殺されるのかと思うが、それは否定される。「人食いは孤独だよ 友達ができにくい おまえが好きだ 我々の仲間にしてやる だから食え」のだと。
   → このへんも多分に吸血鬼などの系譜にあるだろう。『ドラキュラ』なんかも、タブーとしての同性愛について触れているという解釈もなされているのだが、本作、そのへんもにおいはする(※あくまでその気配が踏襲されているという意味で、同性愛を描くものではない)。
アイヴス「“大陸文明は自明の宿命 西部開拓者の群れ” 4月になれば また大勢やってくる 黄金に飢えた者どもが あの山脈を越えーー 新しい人生を夢見てーー 通り過ぎていく この砦を」
   → どうやら上記ですでに触れたゴールドラッシュの切っ掛けとなる金脈はすでに発見された後の時系列らしい?
この砦は欲望を抱いた人々の群れを待つのに打ってつけの場所だったのである。夢を抱き、増長する希望を持った人間たちを、彼は獣のように身を潜めて待っていた。アメリカ(というか、文明社会)への皮肉がほんとすごいセリフである。飢えた欲望に食らいつく、異なる飢えた欲望。血みどろの、ヒトによる営みだ。そして取り立てて言えば、西洋文明が行ってきたことへの極端な表現でもある。夢におぼれたあの西部映画群が大嫌いな身としては正直、拍手喝采である。
「我々は無差別に殺すのではない 殺す相手は選ぶ 家族を離散させたりするものか(…)我々は2人だけだ ハート大佐と私 だから“仲間”が欲しい 君やーー スローソン将軍 大勢は必要ない 食う者が多いと大変だ 安住の地が欲しい この国は“統一体”になろうとしている その腕をのばし あらゆるものを飲みこむ 我々も同じだ」
   → この時に画面では、アイヴスと主人公が肩を並べて立つ間にアメリカの国旗がはためいているのもかなりあからさまに象徴的である。
説得されようとも主人公は彼らの道を拒む。そこでアイヴスは、拒むのではなく、受け入れることが勇気なのだ、難しく考えるな、身をゆだねるのだと語りかけるのだが、このあたりなんかは観ていると、そもそも逃げ出したことによって輪からはずされてここまで来ることになった主人公のそもそもの発端が過る。自分たちの行いを受け入れて増長することが勇気なのだと言われているようなものであろう。
それでも拒む主人公は容赦なく刺され、それでもまだ手はあるのだと、出来たての人肉シチューを目の前に出されることになる。
アイヴスはフランクリン(※アメリカの図書館史に欠かせぬ人物で、北アメリカでの七年戦争では奔走し、アメリカの独立宣言では中心人物にもなった。要はアメリカを語るに欠かせぬ人である)を引用し、生きるために食え、食うために生きるなと引用しながらシチューを貪るが、まさしく、食うために生きている彼がそれを言うのは皮肉である。
そして彼は逡巡の末、生きるために肉を食い、傷を癒やす。

ハート「本がなくなってーー(※ハートは死んだものと処理されたので、遺品として処分されたのだと思われる) 寂しい プラトン アリストテレス 2000年にも及ぶ 人間性やーー 理想の社会 道徳についての模索 それらはーー 現代の我々の悩みと何も変わらない つまり幸福の追求だ」
主人公「哲学は真理の追求だ」
「真理!(※鼻で笑いながら) 私も正義と真理を求めたが たどり着いた先はーー スペンサー砦」
「行かせてくれ」
「それは駄目だ」
「なぜ?」
「もう我々に行き場はない」
「まだ悪夢が ライク クリーヴス ノックス(※殺された兵士たち)」
「(ノーを繰り返したのち)言うな! 後戻りはできない」
「そうだ」
「分からんのか? お前は殺し続けるしかない 生きるために殺すのだ 殺さねばならん!」
アメリカ(というか西洋に飲み込まれたアメリカ大陸)の成り立ちの話だよなあと思いながら聞いていた。西洋人たちは新大陸を飲みこむために何をしてきたのか。特に、今回の場合、北米の辺りに対して何を行ってきたのか。やってきたこと、それはつまり、結局のところ、自分たちの幸福の追求そのものなのである。
主人公がそれでもアイヴスは殺すのだと訴えれば、ハートは自分を殺してから去るように願う。もう耐えられないのだと。上記のやり取りの後のこの発言は切ない。彼は増長した先の行き詰まりの虚しさを知っていた。そもそも初対面の時からそれは語っていたのだ。どれだけ本を読んで過ごそうとも退屈な営みとなっており、ここまで逃げては来ても、ここも安寧の地とは言えそうにないのだと。

外から隊長たちがやってくるのが見える中、ハートは主人公の手によって殺され、緊迫の中でアイヴスと主人公の対決が始まる。
アイヴスは額に血で十字架(!)を描く。
最終的に主人公は用意しておいた巨大な虎ばさみに諸共に巻き込まれながら挟まれるようにする(※ここなんかも上記した意味で吸血鬼文学における同性愛的な要素を感じる)。そしてアイヴスは生き残ったほうは「生きるため」に相手を食うことになるんだなといった旨のことを語る。

そんなこんなの中で外から先住民兵士女性と隊長と付き添いの兵士が戻ってくる。隊長は基地内をさ迷う中で、鍋の中で煮えるあのシチューを美味しそうにつまみ食いしてしまう(アイヴスは彼も仲間にしたがっていたので、それが叶ったわけである)。

食うか、それとも死ぬか。作中を通して何度も問われたテーマが繰り返される中、アイヴスが先に息絶える。そこに原住民兵士女性が現れ、ただ息絶えていく主人公を無言で眺めたのち、その死が訪れるよりも先にふらふらとこの基地の外へとただひとりで歩き出していく。そして主人公は今度こそ死を選んで死にゆき、物語は終わる。
ウィンディゴを終わらせるためには死ぬしかない。果てない飢えの欲望を終わらせるには死ぬしかないのだ。最終的にウィンディゴ同士で殺し合い、死に倒れ、その傍らでは新たなウィンディゴの胞子が生まれ出る。逃げ出した先にも何があるのかは分からないし、本作が表現していたことでいえば、救いのない繰り返ししか有り得ないのだろう。もう連鎖ははじまってしまった後なのだから。
今の社会にも通底する欲望の連鎖の終わりと始まりがアメリカ・メキシコ戦争の最中を通じて最後にも丁寧に描かれて幕は閉じるのだ。この戦いが終わろうとも、まだまだ欲望の魔手はどこまでも手を伸ばし続けるのは先刻御承知の通りだ。なんとも虚しい気持ちが残る、良い映画だった。
せいか

せいか