イホウジン

スワロウテイルのイホウジンのレビュー・感想・評価

スワロウテイル(1996年製作の映画)
4.6
もはや「スワロウテイル」という一つのジャンル

世界観だけでここまで強烈な映画が生まれることはそう多くないだろう。ましてや実写映画では尚更だ。「ブレードランナー」や「攻殻機動隊」を思わせる世界の中で、リアルな身体が躍動する様は、なかなかお目にかかれるものでもない。虚構と現実が激しく往来し、さらにはYEN TOWN BANDを通して観客のいるこの世界にまで侵食する今作は、単なる1本の映画としての領域を越えているように思える。

統一感があるようでない今作について書くために、いくつかの要素に分けて考えてみることにする。
①説明的なオープニング
“Once upon a time”という第一声から映画が始まることに示されるように、今作はあくまで昔話であり、同時に寓話である。扱う内容こそ現代的だが、表面上はフィクションの作り話であることを強調しているということだ。ストーリーの前提となる情報を文章として冒頭に提示するとなると、どこかスターウォーズのような空気さえ漂ってくる。だがその叙述から分かる通り、今作は決してスターウォーズのような完全に虚構な世界とも言いきれない。その現実と虚構を媒介するのが「円」である。SWのフォースやシンデレラのガラスの靴のような役割を、日本円が果たしているのである。このおとぎ話でありながらその基盤を現代日本に置いているという異質さが、結果的に今作の世界観を創り出す源泉となっていく。
②「日本らしさ」の薄さ
ところが驚かされるのが、今作が描く日本はあまりにもリアルの日本の姿とはかけ離れているということだ。確かに日本にも移民街やスラムは存在するのでそれ自体が嘘という訳ではないが、序盤の九龍城のようなグリコの団地や中盤のアヘン窟など、日本と言うにはあまりにも無理がある場面がとても多い。なのでそこで生きる人々を中心に添えた今作は、必然的に「日本人」に対する批評的な眼差しが向けられることとなる。今作における「日本人」は、「円盗」という語を生み出した張本人であり彼らを差別と軽蔑の対象とする、悪役的な存在である。世界観こそ日本をベースとしているが、「日本人」はそれに含まれていないということだ。
そしてそもそもの映画自体の雰囲気も邦画らしくない。どちらかというと、同時代の香港映画や台湾映画の色が強いような映画だ。一般人による性と暴力が入り交じる浮世離れした映画世界は、現在の邦画を俯瞰してもなかなか類作を見つけられないほどだ。
③ジャンルの不明瞭さ
今作は一体どのジャンルに属する映画なのだろうか。確かに構成上の大筋は主人公たるアゲハの心の成長の物語ではあるが、正直それはこの映画を語るほんの一部の要素でしかない。グリコのミュージシャンとしての成功はさながら音楽映画だし、終盤の偽札をめぐる闘争はスリラー映画のようにも捉えられる。渡部篤郎のパートからは、アクション映画の性質すら感じられるほどだ。さらに、日本の単一民族幻想に一石を投じるという意味で、社会派映画とも解釈できる一方、前述した圧倒的な虚構世界からはやはりファンタジーを感じざるを得ない。この多方面へのエネルギーの分散が今作に関する語りを困難にしているのだろうが、同時にそれこそが今作に人々を惹きつける魅力にもなっているように感じられる。何度観ても新しい経験ができそうな映画だ。
④モデルは経済成長期からバブル崩壊の日本?
貧困に苦しんだ登場人物たちが突飛な手段で「円」を急激に増やしていく様子からは、どこか敗戦後からバブル期までの日本の経済発展の姿を重ね合わせることができる。そのお金がハコモノ的な文化へ向かったというのもいかにも80年代的だ。今作の中盤までの展開は、「円さえあれば幸せになれる」というアメリカンドリームならぬジャパニーズドリームの映画とも考えることができる。
だがそこから今度は、やはり円盗たちは“負け犬”でしかないという現実が突きつけられる。どんなに経済的に成功しても、相対する存在に対して負けていることに変わりはないからだ。日本が常にアメリカの敗戦国であり続けるように、円盗たちは“負け犬”の烙印を「日本人」に押され続ける。
そんな事情を踏まえた上での今作のラストは、観客に人間の価値は果たしてお金だけでしか測れないのかという問いを突きつける。お金の有無だけで彼らを見てしまえば、確かに彼らの(リアルな)持ち金はたかが知れてるし、もっと構造的に見れば円盗は「日本人」に比べて金銭的に劣った存在だからこそ彼らに蔑まれる。だが、この映画の円盗たちをたったそれだけの基準で決めつけてしまうのはあまりにも軽率すぎる。アゲハのタトゥーやラストのパートのように、劇中では金の有無が関与してこないシーンが複数あるが、そのプライスレスな財産の獲得/喪失こそが今作の最終的な到達点となる。バブルが崩壊した当時の日本にとって、金があること以外の生の喜びを獲得することが喫緊の課題であったことを察することができるように思われる。この(世界観も含む)混沌は、今となっては絶対に再現できないように感じる。まさに時代に共鳴した映画だ。
⑤アゲハの成長物語
主人公アゲハの人間的成長の描写は、とても分かりやすくかつ物語の中心的な意味を含むものである。名前もアイデンティティもなかった最初の彼女は、グリコによって名前と“イモムシ”としての自己像を与えられ、円盗としてのアイデンティティを獲得し、その成長によって彼女は“蝶”に(無理矢理)成長した。だが、その希望の獲得は同時に死をもたらすものであり、その苦さによって最終的には本当の意味での人間的成長を達成することとなる。タトゥーやイモムシなどかなり露骨な比喩を用いているが、そのオーバーな感じがかえって今作の寓話性を強化しているようにも感じる。
⑥YEN TOWN BAND
これだけの奥深さと難しさのあるこの映画を、大衆向けの商業映画として成り立たせる要素が、YEN TOWN BANDの存在だ。中盤からはバンドの歌唱シーンが何度も挿入されるが、純粋にミュージックビデオを見るような気持ちで楽しむことができる。そのうえ音楽が小林武史なだけあって、それ単体の質もとても良い。
また実際にバンドが現実世界で活動しているのも面白い。鑑賞後にSpotifyでYEN TOWN BANDのアルバムを聴くと、まるでこの世界が映画の延長線上にあるかのような感覚に陥る。そう簡単に真似できるものではないが、現実と虚構を(オリジナルの)音楽で繋げる映画という点でも、今作を評価することができる。

観れば観るほど無限に新しい発見ができそうな映画でありながら、頭を空っぽにして鑑賞しても楽しめるという、少なくとも邦画にはあまり多くないタイプの映画である。

たまに今作の単純さが悪い方に向かうことがあったようには感じる。
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