古川智教

トリコロール/白の愛の古川智教のレビュー・感想・評価

トリコロール/白の愛(1994年製作の映画)
5.0
白の愛は報復ではない。平等の愛は決して報復によってなし得るものではない。カロルをポーランドに密入国させるトランクは一方通行=追放だが、カロルの櫛を使って吹かれる草笛は往復運動をしており、一方通行と対をなしている。カロルがドミニクの収監されている刑務所に行く前にも櫛の往復運動が見られるが、それは平等へと至るための往復運動=追放と帰還である。
では、追放と帰還によって果たされる平等の愛とは何か。
カロルが自らの死を偽装することで、ドミニクに与えようとしたのは、自分が持っているすべて=財産ではない。追放の原因でもあった自らの不能を与えようとしたのだ。「愛とは自分が持っていないものを与えること。もし仮に持っていたとしても、自ら持っていない者になることによって愛することができる」というラカンの定式にしたがって、持っていないもの=不能を与えたのだ。そうすることで互いが平等に持たざる者となり、愛し合うことができるようになる。もちろん、その間には刑務所の越えられない壁があり、ドミニクが手話でカロルに示したように死によって二人が隔てられる可能性もあるわけだが、それでもドミニクは永遠の愛を誓い、それに応えてカロルは涙を流すことができるのは平等に持たざる者となり、持っていないもの=不能を相手に与えたからだ。
カロルがポーランドでのしあがっていくときの商売や、ミコワイのトランプ賭博もまたある意味では交換によって成立しているのに対して、カロルとミコワイの殺人依頼から始まる友情関係や、カロルとドミニクの愛が非交換により強く結ばれていく点を見なければならないだろう。
平等とは優しさでも、安らぎでも、平和でもない。かくも残酷なものであると気づかなければならないし、互いを持たざる者へと引きずり下ろす残酷な平等にしか愛が宿ることはないのだ。なぜなら、愛は交換ではなく、互いの持っていないものを与えなければならないのだから。
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