河

アワーミュージックの河のレビュー・感想・評価

アワーミュージック(2004年製作の映画)
4.4
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サラエヴォ包囲

見終わった後サラエヴォ包囲のwikiを読んでいたら、サラエヴォ包囲の最初の犠牲者が反戦運動の行進をしていたスアダ・ディルベロヴィッチ(Suada Dilberović)とオルガ・スチッチ(Olga Sučić)の2人で、その殺害された橋がその2人の名前で命名されたって書いてあって、主人公のオルガの見知らぬ女性と横に並んだぼんやりとしたイメージ、自殺に関する会話、橋の話、オルガが死んだ後にインサートされる明らかに映画館でない映像などが一気に腑に落ちた。

社会主義国家が民族主義を抑圧してきた結果としてのサラエヴォがあり、ユダヤ人である主人公がいて、イスラエルとパレスチナ間の問題を背景に、許しあうこと、話し合うことを通してパレスチナ人と和解しようと活動をしている。その主人公は前世でサラエヴォ包囲で殺されていて、それをぼんやりと記憶している。
行動する人間は自分の行動を適切な言葉で語れない、逆に詩を読む、物語を語るものは実態を知らないとして、行動する人と詩や物語を語る人が対置される。そしてその詩や物語にカットとイメージの切り返しが紐づけられる。
カットの切り返しとしては、ユダヤ人に対するパレスチナ人、アメリカに対するインディアン、サラエヴォなど、紛争における勝者と敗者があり、パレスチナ人のインタビューによって、その勝敗は詩や物語が発されるかによって決まることが語られる。しかし同時にその敗者であるとされるインディアンなどにも詩や物語があることが示される。
2つ目の切り返しとしてイメージの切り返しがあり、物を見ること(目を開くこと、ドキュメンタリー)、想像すること(目を閉じること、フィクション)の2つがあることがゴダールによって語られる。
その上で映像に対して言葉があり、それを現すものとして文字の集積としての橋がある。その橋は過去の物語を未来に向けて保持するために修繕される。ただ、言葉はイメージの切り返しを実現できない。
そして3つ目の切り返しとして前から映した人(カメラからはその人の後=過去が映る)、後ろから映した人(その人の前=未来が映る)が、文字が発明される前の話として導入される。詩や物語を持たないとされていたインディアンたちが持つのはこの視点であることがわかる。そして、前世と今世を繋ぐ存在であることがわかることで、主人公の持っている視点もこの視点だったことがわかる。
活動家である主人公はパレスチナ人の詩人との会話によって行動から詩や物語に移行する。そして、その後ゴダールの講義と橋の修繕を見ることによって詩や物語から映像に移行する。そして、橋に表される言葉による勝者や敗者、歴史としての物語をどうでもよい、意味がないものとして、そのサラエヴォやパレスチナ紛争の後の無から何かを作り上げる、来世のために自殺することを決め、冒頭の戦争のコラージュを作り上げる。また、主人公のデジカメ、デジカメで撮ることを否定するゴダールのシーンもあり、この映画自体が主人公がデジカメで撮ったもの、ゴダールが主人公のような人物の視点で撮ったものにも思える。
ラストは、天国にいる主人公が努めて見る、努めて想像することを表すように、目を開き閉じることを繰り返す姿で終わる。その主人公が見ているものは来世でありそれ以前の前世、前と後であるような感覚がある。
再見した。会話の密度の高さと一つセリフ逃したら全てついていけなくなる構成もあってついていけず、3日かけて3回見た。その後タルベーラの初期作、『ウェストサイドストーリー』と続けて見ていて、それぞれ15年ずつ年代が違う一方で民族や個人が強制的に住む場所を決められること、除外されること、それによる共生と真逆の結果についてっていう点で共通していたこともあり、どれも映画としてそこまで好きではなかったけど何かかなり残るものがあった。これからも見返すと思う。

1回目: 2021/02/21
河