フォスフォ

愛のむきだしのフォスフォのレビュー・感想・評価

愛のむきだし(2008年製作の映画)
4.0
前半で満島ひかりと西島隆弘が出会うまでの「奇跡」、しかもそれが超高速のカット割りとクロスカッティングに併せてのボレロ、ゆら帝を爆音で鳴らしながら進んでいくとこまではマジで面白い。単純な同時進行とかじゃなくて、この「奇跡」の出会いという一瞬が、各々の視点からひたすら反復して輝きを増していく…のはいいんだけど、いざ出会った後の後半が正直物足りなかった。寺島がサソリになってるせいもあり、ボーイミーツガールから先に話が進まないのでは…とおもったけど、さいごに二人が手を握りあうカットをみて、これは単純に、出会うことの難しさを撮った倫理的な映画なのではと考えを改めたりした。

キリスト教だと性欲=罪悪になるから勃起が敵視されるんだけど、ほんとうの罪というのは、勃起ではなく挿入、そして挿入からの射精だし、ヨーコにしてもコイケにしても、この映画で憎悪されるべきは性欲の指標である勃起よりも直接害をもたらしてくる挿入、あるいは射精のほうなようにおもう。けど、作中ではペニスは勃起した段階で去勢される。じっさい、ちゃんとフレームインするのは板尾が去勢されるシーンの直前だけで、それ以外だとすべてズボンか下着越し(同様に女性器もでてこないしトップレスの描写も画面には映らない)でしかない。男性性との相克とキリスト教、カトリックを結びつけるためには、西島と満島がセックスしないといけない。お母さんへの憧憬=マリア様=ヨーコだし、しかもヨーコは妹でもあるのだから、二重の近親相姦と瀆聖という罪悪を抱え込んで、そういうバタイユとかサドとか三島由紀夫みたいなやり方で、モラルと恋愛の軋轢を撮る映画なんだろう……とおもったのに、まったくそこまで行かない。性器がちゃんと映らないのはもちろん、性行為が画面に映ることもない(始まりそうになったらカットが切れて場面転換するか、強姦が阻止される形でしか性交は描写されない)。だからこれは、犯した罪を描くというよりは、恋愛で罪を犯してしまうかもしれない(また犯されてしまうかもしれない)という恐れで、ボーイミーツガールができなくなっちゃっているカップルの話なんだと理解した。

ヨーコとコイケが被害から男性性の指標=勃起を取り除く。これがなにか強大な父性だのファルスだのと敵対していたら、男性性vs女の子の連体、というレズビアンムービーになるんだけど、そうはならない。この映画の暴力的な父性は過去に遠退いていて、主要メンバーの本田父子はどちらもほぼ勃起不全だから。渡部篤郎は神父だから勃起不能、その息子の西島のほうはヨーコ以外では勃起しない。父性の象徴みたいな強大な男=父もいないし、その父がいないから父殺しをして男性性を継承する息子もいない。そしてその兆候である勃起がでてきたら、すぐさま去勢される。だからコイケは西島にちょっかいかけてじぶんのレベルにまで落とすくらいが関の山で、さいごはストーリーから浮いて、じぶんでじぶんの腹にファルス=日本刀を挿入して自刃するしかない。異性愛は生殖の要素がどうやっても含まれるものの、その生殖のもとの勃起するペニスが去勢されてしまうから、ボーイミーツガールはさいごまで延期されるほかない…だからこそラストカットで、サソリじゃなく本田悠として認められることで、やっとカップルは恋愛として出会うことができるのだとおもう。じぶんの男性性と向き合って勃起することができない少年と、傷のせいで男性そのものを恐れている少女が、度重なる迂回のはてにようやく愛の端緒をどうにか掴む…という恋愛の倫理の映画。こんなに血飛沫ドハドバで行き着く結末が「手を握る」というのはいじらしいくらいにピュアなんだけど、いまの複雑な世の中だと首のひとつやふたつ刺し貫くくらいのこういう苛烈な倫理こそ必要かもしれない。でも男女の出会いに四時間要るってのはやっぱ長いよーとおもうが、運命の相手と手を握るまでにはどんな人間の頭のなかでもこんなハチャメチャが起こっているんだという顛末には心から同意する。
フォスフォ

フォスフォ