イスケ

ガンジーのイスケのネタバレレビュー・内容・結末

ガンジー(1982年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

撮影当時はおそらく30代後半。
MCUファンとしてはすっかり「偽マンダリンの人」である若かりし日のベン・キングズレーの演技に魅せられた。


南アフリカでの体験を経たガンジーの人生は、一貫して「非暴力・不服従」vs「暴力」の対立軸の中にあったんだなぁと、より深く知ることができた。

この「非暴力」を貫くためには、自分の内側に巣食う臆病や不安を乗り越えることが重要だと本人が語っている。
「英国人に挑戦する」こと以前に、「常に自分を律する」戦いをしていたということだ。

感情のまま暴力を振るっては、第三者から見れば同属に映ってしまう。
相手の暴力が怖くて服従してしまっては、いつまでも自分たちは従属する人間のまま。

臆病こそが状況を停滞させる最も悪い行いだと考えていたんだろう。
自分を律することを何よりも重んじるばかりでなく、仲間にも同じことを求めた源流はそこにあり、ガンジーの中での優先度は「臆病<暴力<非暴力」だったのだと思う。


ガンジーには、断食をして暴動を鎮められるカリスマ性があった。いや、そんなやり方あるんやと。現代で岸田さんが同じことをしても草が生えて終了だろう。
ただ、断食がどうして非暴力に繋がるのか、初めは今ひとつ分からなかった。カリスマ性がそこまで人を動かすのか。

しかし、先の「臆病」についての本人談を元にすれば、自分を律することの象徴として断食があり、その姿を見せることで非暴力・不服従を仲間たちに訴えたかったのかなと感じた。ロジックがある。君たちも律せよと。


「攻撃をしないが指紋も押さない」
「死体は手にできるが服従は手にできない」

バカみたいな物言いで恐縮だけど、これらの言葉があまりにも格好良くて。

同時に、ウクライナ戦争であったり、ガザ戦闘であったり、核による威嚇だったり、(お互い主張があるとはいえ)不当に攻め込まれた場合に非暴力で解決するのは現実的ではないんじゃないかという考えがずっと頭にあった。ガンジーならどう考えるのだろう。

すると写真家のマーガレットから「ヒトラーにも非暴力で?」というピンポイントの質問が出て「それそれ!」とw

ガンジーはこう答えている。

「非暴力は苦難の連続だ。
 ヒトラーの不正を受け入れてはいけない。
 その不正を明かすのだ。
 そのためには死も覚悟する。」

つまるところ、それでも非暴力を貫く強さを持てということ。
ヒトラーに攻め込まれ、根こそぎ物を持っていかれようと、家族が犠牲になろうと、国から追い出されようと、どんなケースでもそれは変わらない。

それが暴力で応酬するよりもずっと苦しいことだと肝に銘じた上で、それでも不正を明かすべきだと言っているのでしょう。

ここまでくると自らの死は前提と化しているように思える。
次世代のために。民族という共同体の命のために。

死後への信頼が薄く信仰心を持たない人間の多い日本では非常に難しい。自分ならやはり家族と一緒に逃げようとしてしまいそうだ。


ヒトラーの話がひと段落すると、写真家のマーガレットは、うまく織れなかった布を見せながら「私は役立たずね」と言う。

ガンジーは、
「話を逸らすな。私のように忍耐強くなるんだ」
と言い、布の織り方を教えてあげるのだけど、これは「不正を明かすために忍耐強く現状を伝えてくれ」という比喩だったのではないかと思う。

ちなみに実際あった話として、ガンジーはヒトラーに暴力をやめるよう促すような書簡を送り、ヒトラーはヒトラーでガンジーについて問われた際に「殺してしまえばいい」と発言し、それらの声はお互いに届いていなかったとされている。(正式に認められている話ではなさそう)

彼らの答えを見比べてみても、交わりはしなかったものの究極の対立構図だったんだなと思わされる。


独立を勝ち取った結果が、インドとパキスタンへの分離だったのは本当に悲しい。
いや、それだけならまだ良い結果と言えたかもしれない。
互いの国でヒンズー教徒と回教徒の少数派が弾圧されてしまうという展開になってしまった際のガンジーの心中を想うと辛かった。

暴動を行っていた青年に、

「子供を拾ったらいい。
 父と母を殺された子供を。
 但し、回教徒の子だよ。」

という解決方法を示したガンジーを心底尊敬してしまったよ。


今の時代に制作していたら、神格化されているガンジー以外の部分ももう少し踏み込んで厚みをもって描かれていた気はするね。

もちろん劇中には描写されなかったが、人生晩年に女の人と寝ているところを発見されて、それに悪びれる様子もなかったという、人間らしいエピソードは好き。

非暴力・不服従を貫いた人物にも勝ってしまう性欲とは一体。
イスケ

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