テテレスタイ

少年と自転車のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

少年と自転車(2011年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

イライラする映画w

もっとハートウォーミングな作品だと期待したんだけど、見終わってもぜんぜん心が温まらなかった。ささくれだった気持ち悪さが最後まで残る。でも、この映画の監督が何を伝えようとしているのかは何となくわかる気はする。(間違ってるかもだけど)

シリル(主人公、11歳の少年)が、散々悪さをやったことの報いとして、ラストシーンで木から落ちちゃうわけだけど、僕はその光景を見て猿も木から落ちるっていうことわざが思い浮かんだ。そして、前半のサマンサの床屋のシーンでは、シリルが水を出しっぱなしにしていたけど、そのとき水を意味ありげに手に当てていた。振り返ってみるとそのシーンは、上手の手から水が漏れるになっていたと思う。

両方とも、どんな名人でも失敗することがあるという意味を持つわけで、少年が失敗してもあんまり叱ってやるなよってことになる。

しかし、悪さをすることと失敗することって違うよね。でも、旧約聖書の罪は、ヘブライ語でハターであり、ハターの一番基本的な意味は、失敗すること、あるいは、的を外すこと。だから、旧約聖書の世界では、罪とは失敗することを意味する。もっと詳しく言うと、神と他者に敬意を払わず愛することに失敗すること。(シリルが一度死んで復活したかのような表現はイエスキリストを想起するため聖書)

シリルは父に捨てられて愛を知らずに育った少年だから、したがって必然的に誰かを愛することに失敗してしまう。だから少年の中に悪意を認める前に、愛を教えろということになる。ただし、シリルにバットで殴られた少年は、石を投げて命中させた。この命中というのがまた意味深で、彼は的を外さなかった。つまり罪を犯していないとも考えられる。シリルが報復されて、また報復合戦が始まりそうだったけれども、たぶん、監督の意図としては、石を投げた少年には罪はないと描いていると思う。それと同時に、本当に少年には罪はないと考えてよいのかという問いも発している。



上記以外の別のことわざもこの映画に盛り込まれていて、三度目の正直とか、身から出た錆とか、朱に交われば赤くなるとか、飼い犬に手を噛まれるとか。

シリルに犯罪をさせた不良少年ウェスは、シリルを犬扱いしてた。犯罪の訓練ではまるで犬に教えるように調教していた。シリルを捨てるときは、まるで犬を捨てるかのようだった。そして、木から落ちたときはシリルは猿に見立てられていた。愛を知らなければ人間は人間になれないとでも言いたげなストーリーだ。だから、この映画の中ではシリルは鍵のかかった扉によく阻まれていたが、シリルは檻に閉じ込められた動物のように描かれていた。

それに対して、自転車は自由を象徴していたと思う。自転車に乗ればどこまでも自由に行くことができる。しかし、その自転車は一度パンクして、ウェスが修理をしてくれた。だからシリルの自由はウェスに上書きされ、間違った自由になってしまった。犯罪を犯す自由。

シリルがウェスを慕ったのは父親の代わりになってくれると思ったから。なぜそこまで父親に拘るのか最後まで分からなかったけど、犬がご主人様を欲するのと同じなのかもしれないと何となく僕はそう思った。

良いことをしたらご褒美に餌を与え、悪いことをしたら叱りつけるのが、ご主人様だ。シリルの父親がレストランに勤めていたのはなんとも象徴的だ。父親はシリルの給仕係だ。そして床屋さんのサマンサは、トリマーだ。給仕係とトリマーなら犬は給仕係に懐く。

シリルの父親もウェスも、シリルに餌を与えてうまく調教していた。父親はシリルに電話はするなと調教し、ウェスは電話に出るなと調教した。だからシリルは映画の前半ではあんなに好きだった電話をその後は使わないようになった。他の大人たちがシリルに電話を使うように言ったがシリルはそれを聞かなかった。他の大人たちはご主人様にはなれなかったからだ。

ウェスに唆されて、シリルはバットで犯罪を行った。犬も歩けば棒に当たる。そして、犯罪を犯した後、警察に連れていかれ、反省したことで人間に近づき、犬から猿になった。反省だけなら猿でもできる。反省できても、だから人間になれたとは言い難い。

そして猿になったシリルは、犬猿の仲の少年と出会って襲われた。襲われて、猿蟹合戦の逆の現象が起こった。猿蟹合戦では、猿がまず木の上から固い柿を投げつけて悪さをしたあと、復讐で蟹の仲間に猿が襲撃されたが、この映画では、逆に、猿が襲撃した後、木に登る猿が石を投げつけられた。だから猿蟹合戦の逆だ。(古くから伝えられる)猿蟹合戦では最終的に猿は死ぬ。その逆だから死なずに、生き返る。たぶん、罪を背負って生き返ったことで人間になった。



この映画は、日本の養護施設の子供を見て着想したらしい。だから、日本のことわざが出てくるのも納得だ。そして、たぶん、子供を養護施設に放り込むのは子供を動物扱いしているということなのだろう。他方で、愛を知らない子供は犬と同じだから叱ってやるなよっていうキリスト教圏の教育の在り方も、それはそれで子供を動物扱いしている。なので、日本も欧米も子供を動物扱いしていて、それをコインの裏表のように描いているのがこの作品なのだろうと思う。たぶんね。