懐かしの日々を配信している動画配信サービス

『懐かしの日々』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

懐かしの日々
動画配信は2024年5月時点の情報です。最新の配信状況は各サイトにてご確認ください。
本ページには動画配信サービスのプロモーションが含まれています。
目次

懐かしの日々が配信されているサービス一覧

『懐かしの日々』が配信されているサービスは見つかりませんでした。

懐かしの日々が配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
クランクイン!ビデオ
JAIHO
ザ・シネマメンバーズ
スターチャンネルEX
みるアジア
WOWOWオンデマンド

『懐かしの日々』に投稿された感想・評価

半兵衛

半兵衛の感想・評価

3.1
オムニバス映画にしては9つのエピソードに接点があまり無いためとりとめのない印象になっているけど、話はよく出来ているし映画黄金時代ならではの豪華なセットや膨大なエキストラがこれでもかと投入されているので見ごたえがある。個人的に好きなエピソードは一緒にいる時間が限られたカップルがどうでもいいことで喧嘩してどうでもいいことで仲直りしてベッドインして別れるというというエピソード。

そしてラストのエピソードのインパクト、裁判が被疑者である妖艶なジーナ・ロロブリジーダの谷間攻撃により逆転し被疑者が実質無罪になる様がアホらしくも笑える。やはり男はデカパイには敵わないのね。
DVDイタリア映画コレクション(コスミック出版)にてブラゼッティ祭りの続き。そうかロッロブリージダの「la maggiorata」という渾名はこの映画から来ていたんだ。

 ロッロブリージダがヴィットリオ・デ・シーカと共演したエピソード「フリュネの裁判」。ロッロブジダはほとんどセリフがないのだけれど、それで十分。姑を毒殺し町中の男と関係を持った、いわゆる「毒婦」として終身刑に処せられるはずなのに、デシーカの演じる官選弁護士が、みごとな弁論を、それも即興で披露。彼女の見事な肉体に罪はないと訴え、「精神薄弱者(i minorati psichici)」に対して「肉体的な豊満 (maggiorata fisica)」という法律用語をでっちあげると、マリアンテニエッタ/ロッロブリジダを有罪にすることは、ヴェスヴィオ火山を有罪にするようなものだという。

その言葉に、街の誰もが納得してしまうという喜劇(原作はナポリの喜劇役者・作家のエドアルド・スカルフォッリョ)なのだが、同時にロッロブリージダは、イタリアではグラマーやセクシーというだけではなく「マッジョラータ・フィズカ」としても知られることになる。

 とはいえ、この映画の面白さは最後のナポリ喜劇にあるのではなくて、アルド・ファブリッツィ演じる古本屋が、次々と紹介する19世紀の読み物の多様さを、そのままに映画化したところにある。

 ファブリッツィが最初に紹介するのがルイージ・マンツォッティ(Luigi Manzotti 1835-1905) の脚本と振付による『Ballo Excelsior』。これはイタリア独自のミュージカル仕立ての無言劇「グラン・バッロ」(大いなる舞踏)のひとつで、1881年にミラノ・スカラ座で初演、その後各地を巡業、1889年にはパリの万国博でも上演されたというもの。

内容は、美しい「文明 Civiltà」の女神が、進歩を阻害する「闇 Osculità 」に捉えられながら、やがて「光 Luce」の女神によって解放され、さまざまな発明が進歩をもたらす。たとえばそれは、蒸気船、スエズ運河、電報、電灯、そしてモンチェニージオのトンネル(実際には1871年開通のフレジュス・トンネル)。この劇中劇で触れられているのはアレッサンドロ・ヴォルタの電池とモンチェニージオのトンネルの開通だ。

いやびっくりした。こんなミュージカルがあったのか。そして、それを映画にしてみせるブラゼッティの手腕。

続いて、カミッロ・ボイト(1836 –1914)の短編『1日に足らず Meno di un giorno 』(1883)。ボイトといえばヴィスコンティの『夏の嵐』(1954)の原作となった『官能』(Senso)の作者だが、同じ短編集『SENSO: NUOVE STORIELLE VANE』(1899)にに納められた小品。今からすればたわいものない昼メロなのだけれど、19世紀の後半においてはロマン派の理想主義やアカデミズムへの反逆であり、「よろめき」を奔放な生き方として称揚した文学運動「 蓬髪(ほうはつ)主義運動 scapigliatura 」の代表的なもの。

「1日にも足らない」逢引きの主人公を演じるアルバ・アルノーヴァが実に可愛らしくてよい。「BALLO EXCELSIOR」の文明の女神も彼女が演じているのだけれど、もともとクラシックのバレリーナでもあり、表情だけではなくて動きが滑らかでうっとりしてしまう。その動きを追うカメラがまたスムーズであっという間に物語は次のデアミーチスへ。

「サルディニアの少年鼓笛兵」は『クオレ』のなかの一節。第一次独立戦争のクストーザの戦い(1948年)を舞台に、イタリア語とヴェネト方言が飛び交う中で、サルディニアから来た少年兵の活躍を描く物語。ちなみに、第三次独立戦争のクストーザの戦い(1966年)を映画いたのがヴィスコンティの『夏の嵐』(1954年)。

このエピソード、デアミーチスの描写通りに映像化していると言われるだけあって迫力満点。最後に再開した少年の前で、大尉が帽子を脱ぐ姿には、おもわずホロリとさせられたのはちょっと悔しいけれど、そのくらいうまく出来た話であり、映像だったということなのだろう。

この重たい話に続いてはレナート・フチーニ(Renato Fucini 1843 –1921)の『Questione d'interesse』(『All'aria aperta』 (1897)からの短編)。こちらもまた小さな戦争なのだけれど、道端に馬が落としていったフンを奪い合う農民を描く。最後は互いに殺し合わんばかりになったところを止められるのだが、原因はなにかと聞かれて「利害の問題なんでさ questione d'interesse 」と答えるところがミソ。人間の争いなんて、どんなに言い繕っても、クソをめぐる争いのようなものというわけか。

続いて Guido Nobili の『L'idillio』。「初恋」と訳されていたっけ。キスをしたことで子供が産まれるか心配になる男の子の話なんだけど、その父と母を演じるのがパオロ・ストッパとリーナ・モレッリ。

子供の恋に続いて今度は大人の嫉妬。取り上げられるのはルイージ・ピランデッロの『万力(La Morsa)』(1910年)。いかにもピランデッロらしいミステリーめいた嫉妬劇というか復讐劇というか、実に実に暗い大人の恋愛沙汰をエリーサ・チェガーニとアメーデオ・ナッザリが演じて秀逸。

ブラゼッティはこの重たい話に「昔の名曲集」を続ける。狂言回しの古本屋の屋台にかつての名曲の歌詞が持ち込まれたという設定で、持ち込んだ若者の両親のハネムーンの写真に合わせ、今の言葉でいえばミュージックビデオが挿入されるのだ。

そして最後に、冒頭で紹介したデシーカとロッロブリジダのエピソードで大いに笑わせられる。「雑記帳 Zibaldone 」というタイトルを与えながら、どうしてどうして、じつに計算されたセットリスト。じつは、こうしてエピソードを積み重ねることが、当時は新しかったということらしい。

 1950年台のイタリア映画では、ロッセリーニやデシーカらのネオレアリズムのインパクトも薄れてきており、いわゆる危機がとりざたされたいた(ただし、どの本をみても、イタリア映画はいつも危機にある)。つまり、もはやリアリズムだけの重たい社会映画や告発映画だけでは興行的にも、先が見えない状態だったわけ。

 そこでベテランのブラゼッティが打ち出したのがこの「雑記帳 Zibaldone」というスタイル。プロデューサから『Altri tempi (今とは別の時代)』をメインタイトルにされたとはいえ、この映画はまさに「雑記帳」。あれやこれやのアイデアを19世紀後半アラ20世紀の初めにかけての作家たちの、それぞれに特徴的な作品を9つ集めてくると、それを2時間の映画のなかに放り込んでみせてくれたわけだ。

 その混乱ぶりはむしろ娯楽になっているし、少し後のテレビの時代のザッピングのようでもあるけれど、もう少し風流で味わい深く、映画の可能性をさまざまな方向に開いてくれるような仕上がり。さすがブラゼッティ。どこまでもイタリア映画のパイオニアというわけだ。