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私は貝になりたいの教授のレビュー・感想・評価

私は貝になりたい(1959年製作の映画)
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何度も映像化され、屈指の名作と呼ばれている作品。
なのだが、橋本忍による脚本家としての天才性と、モチーフの不一致を強く感じる。

冒頭から清水豊松(フランキー堺)というキャラクターの「庶民性」の持つ残酷さの描写の鋭さは秀逸。
出征兵士を見送る際に、日章旗を笑顔で振る。しかしその直後には自分にも赤紙が来るという顛末や、戦後になれば「戦犯は逮捕されて裁かれればいい」と放言していると、自分が戦犯として逮捕されてしまう、といった世相に従順な様、というのも並行して描いている。

本作は「雰囲気」と「設定」だけを追えば、加えてディテールの各所の「スパイス」が効いているので「感動作」として申し分ないのだが、黒澤明が本作の脚本を読んだ際に「これでは貝になれないのではないか?」という指摘を踏まえると一気にそれが瓦解するようなところがある。

先に述べた「庶民性」の残酷性、軍隊や戦争の不条理、など物語内の豊松への追い込みは確かに苛烈で、皮肉めいている。
言葉の通じない、日本や日本軍隊内部の習慣を知り得ない米軍からの「正論」との違和感などは説得力があるのだが、その戦争体験からの「人間への絶望の深さ」というのが、噛み合っていかない。

豊松は、徴兵はされていても、作中で戦地には赴いていない。
内地でのB29の搭乗員である捕虜を、上官の曖昧な命令によって、殺害する(作中ではよくわからないが、殺害には至らず負傷させたということになっている)。
その罪を、戦後に問われ戦犯として処刑されてしまう悲劇が描かれる。
それは確かに悲劇に違いないし、不運には違いないのだが、物語としては、豊松が人生を恨み、戦争を恨み、人間や牛馬よりも、貝になりたいと嘆くには材料が不足している。

戦争や、軍隊という組織の理不尽が描かれはする。
しかし、物語としてはその「理不尽」に対して「悲劇」のディテールだけが強調されている。
どうしても黒澤明の言に引っ張られてしまうところはあるが、個人の「絶望」に対しては豊松の抱える心情への追い込みと、描き込みが弱く感じてしまう。
というより豊松をあまりに「市井の人」として描くあまりに「イノセンス」の象徴になってしまったせいで戦争そのものの理不尽が弱まってしまった印象がある。

特に、ラストの有名な遺書のモノローグは、感情的に読み上げるのではなく、淡々と無感情に読み上げるべきで、子供の頃、朧げに観て感動した作品ではあるが、よくよく観直してみるとさまざまな気付きがあった。
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