YasujiOshiba

スターマン/愛・宇宙はるかにのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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リトライのU次。23-10。なんどか落涙しかけた。

なによりこれは地球外生命体を相手にしたボーイ・ミーツ・ガールもの。そのコミュニケーションを可能にするのがジェフ・ブリッジスの肉体。クローンであれなんであれ、肉体がなければ共感はなく、共感のないところに言語は成立しない。

だから肉体をもたない生命体は、ジェフ・ブリッジスを再生する。それは同時に、カレン・アレンにとっては亡くした愛する人の帰還であり、グリーフワークの延長なのだ。けれどもグリーフワークを潜り抜けながら、閉ざされそうな未来を開く。すなわわち、天に父を持ち、地に母を持つ、あの聖なる子どもの誕生が予言されるのだ。

その予言を聞くまでの道程は、まさにアメリカンロードムービー。ガススタンドでガスを入れ、ダイナーはフードスタンドとなって、お手製のアップルパイやチェリーパイがクリームをたっぷり乗せて振る舞われる。サンドイッチよりも先にパイに舌鼓をうつブリッジスの表情が最高なのだ。肉体を持つことで食を味わい、愛を知ることができるというわけだ。

言語はその感覚の上に意味を持つ。知らない表現をいくら「定義 define」してもらっても生きた言葉にはならない。「Take it easy」に「Fuck you」のジェスチャーで返すやりとりが、野蛮ながらも生き生きとした肉体のコミュニケーションなのだ。

このコミュニケーションが新鮮なのは、スターマンのブリッジスが英語を覚えてゆく過程にあるのではない。亡き夫の肉体をまとった外星人を相手に、カレン・アレンが辛抱強く立ち止まりながら、英語を解体・再構成して、その「定義」へと開いてゆく姿こそが、新鮮な驚きなのであり、学ぶべきものなのだと思う。

たぶんこれが二度目ぐらいなのだけど、最初見た時はほとんど印象に残らなかった。『未知との遭遇』(1977)はまだましだったけれど、『E.T.』(1982)なんかは、善意の宇宙人との接近遭遇を寓話として語る子供騙しのように思っていた。

でもちがうのだ。善意の宇宙人とは、外の世界から到来した客人(まれびと)にほかならない。歓待するのか。それとも敵として殺すか。問われているのは、そんな来客を迎える共同体のあり方なのだ。

スターマンは、折口信夫が言うように、宇宙のかなたの「異郷(常世)から来訪して,人々に祝福を与えて去る神」にほかならない。だからこそ、ロードムービーなのだ。神は到来して、地上に遊び、印を残して去ってゆく。

そんな神の去来は、直線的な時間において起こるのではない。神はすでに到来しているのであり、すでに去っているのだが、わたしたちの傍に顕在している(パルーシア)。それをぼくらは、この映画のラストで、闇の中から光の方へと面を上げるカレン・アレンの瞳に認めることができる。

彼女の瞳のなかで、未来と現在はトポロジカルにつながる円環的なものとして立ち上がる。そんなカーペンターの異色のロードムービーは、やがてテッド・チャン原作をビルヌーヴが監督する『メッセージ(Arrival)』(2016)の内容を、あらかじめ予言したいたのだと言っても、けっして言い過ぎはないと思うのだが、どうだろうか。

追記:1/21

「鹿が立ち上がるロングショットなんてもう…」というリプライをいただいた。あのシーンはほんとうによかった。展開としては生き返ることがわかっている。でも、ダイナーのおばちゃんとカレン・アレンだけが窓越しに目撃し、タコ野郎たちにの目には入らない。だからロングショット。なるほど、演出とショット。

ぼくの落涙(しそうになった)ポイントを思い出しておくと、まずは冒頭のストーンズ。アイ・カント・ゲット・ノー・サティスファクションとの歌声が聞こえてきた瞬間。ストーンズはヴォイジャー2のゴールデンレコードは入っていなかったはずだけど、満足を知らないぜとロックするその内容は、野蛮だけど活力に満ちて、もしかすると美しさの源かもしれない。少なくともぼくは、そんなシンプルで逆説的なメッセージを受け取ったのだ。

 それからアメ車の数々。まずはピカピカの赤いフォード・マスタングコブラ。あれがガレージに入っている水辺の小屋はアメリカの理想。それから古ぼけたピックアップ。ネイティブアメリカンの母親と赤子はまさに聖母子像。それからヴェガスで手に入れた金ピカのキャデラック。ジャックポットが確率ではない次元からすれば、それは富でもステイタスでもなく、ただの乗り物。だからタンクローリーに突っ込んで燃えあがればよい。そしてそんな移動の背景に広がるのが、西部劇のころからずっとお馴染みの風景。そして鉄道...

ぼくが『北国の帝王』(1973)を2番館で見たのは中学生のとき。以来ずっと印象に残っているのがアメリカの鉄道。そこでリー・マーヴィンやキース・キャラダインのホーボーたちが、法と秩序の象徴たる鬼車掌のアーネスト・ボーグナインと命懸けの追いかけっこ。自由な遊びのはずなのに、その自由が奪われてゆく時代の悲哀。それがぼくにとってのアメリカの鉄道であり、ぼくにとっての故郷の(映画館で見た)風景。

貨物車に滑り込むシーンを見るたびに、なんだか故郷に帰った気がするのだけれど、帰るべき実家がなくなった今だからなおさら、ますます郷愁を覚えてしまうのだ。
YasujiOshiba

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