村有徳

愛を読むひとの村有徳のネタバレレビュー・内容・結末

愛を読むひと(2008年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

1年ほど前に大学のメディア論の授業で取り上げられてから、原作は読んでいたのですが映画は未視聴のまま。テーマがテーマなのでなかなか観れずにいましたが、やっと観ることができました。

冒頭から「なんでドイツ設定なのに英語喋ってんだよ」とかそういうモヤモヤはありましたが、映像がシックな雰囲気で素敵だったのであまり気にならなくなりました。インテリアもいちいちおしゃれでよかったです。

原作にあったシーンかどうか私は忘れてしまったのですが、サイクリング旅行の最中にハンナが教会の聖歌を聴いて泣いていたシーンが印象的でした。ハンナは徹頭徹尾「音声メディア」的な人物として描かれるんですよね。

音声メディアは、文字メディアよりもより肉体的な、共同体形成的なメディアです。例えば、カトリックの教会で歌われる聖歌には、教会に聖歌という音声メディアを響かせることで、その教会という場所の結束を強化する意味もあります。音楽ライブとかで同じ音楽を聴いて踊って自他の境界線が曖昧になってなんか楽しいみたいな、そういう感覚のことです。

で、文字メディアというのは反対に非肉体的な、個人的なメディアと論じられることが多いです。聖書に立ち返ることに重きを置いたプロテスタントが教会で聖歌を歌わないことにも、それは現れています。

で、ハンナですが、服役前のハンナは文盲なので音声メディア的な存在と言えます。教会の聖歌に涙した描写からもそれは読み取ることができます。また、朗読がセックスと結びついていることからも、ハンナの肉体的、性的な魅力は彼女が音声メディア的存在であることに由来していると読み取ることができます。

しかし、マイケルからテープを受け取るようになり、読み書きができるようになったハンナは文字メディア的な存在に変化します。「ハンナが読み書きできるようになってから身の回りのことを気にしないようになった」という描写はつまり、文字メディア的存在になってしまった結果、ハンナの肉体的・性的な魅力が失われてしまったことを示していると考えられます。マイケルが数十年ぶりに再開したハンナに対して若干冷たく接してしまったのは、ハンナにかつての肉体的な魅力を感じなくなってしまったからと考えられますが、これはマイケルがハンナに贖罪として録音したテープを送った結果なのです。

マイケルが彼女の手紙に一度も返事を書かなかったことを、私はこれまで理解できていなかったのですが、今回このレビューを書きながらなんとなく分かった気がします。マイケルは彼女が文字を獲得することから目を背けていたのではないでしょうか。朗読という彼女との繋がりを保とうとすればするほど、彼女が遠くに行ってしまうような気がしていたのではないでしょうか。

マイケルはあの夏の日のハンナをずっと追いかけていたかっただけだった。でもハンナはあの頃のように朗読に耳を傾けるだけではなく、文字の読み書きを獲得しようとしてしまいました。それはきっと、マイケルと手紙で話したかったからだと思います。美しい過去に囚われ続けたマイケルと、一歩を踏み出したハンナの対比、そしてその結末はとても残酷だと思いました。


ハンナが自死する際に、彼女が必死に文字を勉強したであろう机と、何度も読み返したであろう本の上に登ったのはつまり、文字メディアが彼女を殺したことを象徴的に示しているのでしょう。このシーンは原作ではさらっと語られるだけで、それはそれで呆然とするマイケルの心情に強く共感することができて好きなのですが…。
村有徳

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