「毛沢東語録」を引用しながら討論に明け暮れる男女たち、公開時は1967年、中国では文化大革命の真っ只中、世界はベトナム戦争の泥沼化や学生運動が盛んな時期であり、ゴダールなりの視点であの時代の若者らが理想とする革命とその後の内ゲバを描いている。
ゴダールは当時30代後半ぐらいだと思うが、この激動の世界情勢をどう見ていたのだろうか気になっていたが、この映画から推測すれば、どこか唯物史観の流れには迎合できない“若き老人”が作った観念的な映像世界であった。
「盲人になりたい」
「なぜ?」
「まじめに耳を傾け、語り合うだろうから」
〈中略〉
「言葉を音や物質として話すのね」
革命を理想としながらも愛想笑いのような付き合いであり、所詮は“ごっこ遊び”の延長。毛語録の引用はファクトリーで大量生産されるウォーホルのシルクスクリーンのように艶やかであるが、どちらにせよ表面的でもある。
セリフを本番まで教えない即興重視の演技や、撮影に使われるカチンコをそのまま映す演出は、ゴダールならではのメタ的な表現はいつものこと。
電車内の教授との議論において、列車の方向は彼女の側からみれば進行方向であり、言葉が噛み合わず一方的な行為である事を案に示した描き方である。
手違いによる男の死は「気狂いピエロ」におけるフェルディナンのように派手なダイナマイトを使わない、どこにでもありえる政治的な犬死にであったが、過程はどうだろうと結果において死はすべてが平等であり、それは監督自身が望んだ尊厳死も自然死と同様である。
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