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ゆれるのkomoのレビュー・感想・評価

ゆれる(2006年製作の映画)
5.0
東京でカメラマンとして成功を収めている猛(オダギリジョー)は、母の一周忌で長らくぶりに帰郷する。猛を迎えたのは、家業であるガソリンスタンドで働く兄の稔(香川照之)と、稔の仕事仲間であり猛の元恋人でもある智恵子(真木よう子)だった。
3人は昔を懐かしんで渓谷へと出かけるが、そこで智恵子が吊り橋から落下してしまう。その時同じ吊り橋にいたのは稔だけだった。稔が突き落としたわけではない、と信じる猛は、法廷の証人台に立つが……。


数年前に観た際、本編から『事実』をひとつも読み取れず、自分の読解力の無さを悔やみました。
しかし最近観返して、あえてそのようなつくりになっているということにようやく気づけました。今となっては、西川監督があえて描き上げた『余白』に気づけなかったことの方を悔やんでいます。

被告として裁判にかけられる稔は、一見すると気優しく人畜無害のような男性。
けれども、そんな稔を演じた香川照之さんの演技は怪演の呼ぶより他ないほど、人間の深淵を感じさせます。
対する猛は、家業を継ぎ父親の面倒も見ている生真面目な稔とは真逆で自由に生きており、都会嗜好で飄々とした物の言い方をします。
しかしこの映画を最後まで観ると、猛の方がスタンダードな価値観を根幹に持ち、あらゆる情を捨てきれない人間なのではないか、と感じさせられました。

人の心は揺れ続ける。迷いや悲しみに揺さぶられたり、憧れを求めて自ら揺られたり。
どれだけ穏やかな人物でも、生きている限り絶えず揺れ続けるものだけれど、
その『ゆれる』を『渓谷の吊り橋』という恐ろしいシチュエーションにかぶせて、安全な場所からこの映画を観ている者の心のの安寧をも揺さぶってくるのはなかなかムゴいコンセプト。冒頭からなんとなく感じていた不気味さはこのせいだったのか…。


※作中で真相が明らかにされていないためネタバレというと変ですが、下記は具体的なレビューです。作品を純粋に楽しみたい方は閲覧注意↓








猛は、稔と智恵子の橋の上でのやり取りを見ていないと言う。しかし兄の性格からして、誰かを故意に突き落とすなんてことは有り得ないと。
恐らく、猛が初めにその想像をし、兄を守りたい感情を抱いたことも、きっと真実なのだろう。
しかし作中では最後まで、稔が実際に智恵子を突き落としたのかどうか、あるいは過失で落としてしまったのか、はたまた彼女がひとりでに落ちていったのか、結局明らかにされない。
稔が猛に話したことや、法廷で話したこと、それらの中に真実があるのかないのかもわからない。
殺人容疑者をかけられ捕らわれになった稔は、面会に来た猛に対し、縋るような声を上げる。助けてくれとも、見放してくれとも取れる言葉で。
今まで見たこともない兄の顔、思いもよらない兄の言葉。それを受け取った猛もまた、揺さぶりをかけられる。
兄は今何を考えているのか?昔から今に至るまで、何を考えて生きてきたのか?あの時吊り橋で兄が取った行動は?自分の兄を救いたいという思いは兄弟愛などではなく、田舎で燻っている兄への憐憫なのではないか?兄を庇っているのは、自分が殺人犯の弟になりたくないからというだけではないか?
モノローグ抜きで、猛の葛藤がここまで伝わってくるのが凄い。
一方で、稔が猛に対して抱いていたコンプレックスも露わになるものの、稔の心の奥底は決して覗ききれない。検事の誘導的な尋問もあり、より一層稔の真意が読み取りづらくなっている。どの場所に至っても、稔が吐露する言葉は真実への架け橋になることはない。そういった構成も凄い。


私はやはり稔が智恵子を突き落としたわけではないと信じたいし、腕の傷を見るに、彼女を助けようと腕を掴んだ説を推したい。
けれども無実となって釈放されたとして、あのガソリンスタンドでの生活に戻ることは稔にとって幸せだろうか?
無罪エンドがあったとしても、あの兄弟はもう以前のようにはいられないと思う。
そしてそれは、あのバス停での結末の後、稔が猛に応じても応じなくても同じだと思う。兄弟の絆の一部は、あの事件の直後に腐った板のようになってしまった。智恵子という存在が踏み外した足場が、兄弟の生涯にも暗い穴を生み出した。
観る者によって解釈が大きく異なる作品であることは確かだが、【あの橋を渡るまでは、兄弟でした。】というキャッチコピーは、誰の目から観ても共通の真実であるように思った。
邦画で一番好きな作品。
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