ケーティー

ラヂオの時間のケーティーのレビュー・感想・評価

ラヂオの時間(1997年製作の映画)
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明確な1つのゴールへ向かう群像劇


本作がうまいのは、どんなに変な人が出ようが、何しようが、ラジオ放送(ラジオドラマ)を最後まで終わらせるという1つのゴールに皆が向かっているのである。
実は、三谷さんの初期の映画作品は、特にこの作り方をしていて、「12人の優しい日本人」、「みんなの家」、「有頂天ホテル」あたりはかなりわかりやすくゴールを作ってる(※)。
しかし、だんだんラストのゴールが入り組んでたり、人を騙して知らないうちにゴールへ向かわせたりするのが、「マジックアワー」、「清洲会議」であろう。
さらに、「ギャラクシー街道」や「記憶にございません!」に至っては、そのゴールは明確でないままスタートするので、作品作りとしては難易度が上がっている。

さて、話を本作に戻すと、やはりこの明確なラストへの収斂があるから、様々な伏線と回収で笑いの渦が起こっていくのだろう。
最初のシーンで、こいつらは大変なことになるぞという予感を感じさせる、それぞれの人物の事情の見せ方もうまい。

本作は、脚本家の女性が可哀想だという感想を持つ人もいるという。
おそらくそれは、初めのリハーサルシーンの印象で変わるだろう。初めにラジオドラマの結末シーン(これを最初に見せるのもラストに効いていて構成上うまい)をリハーサルで演じてるのだが、この時のセリフはあまりにくだらなく、明かに主婦の書いたラジオドラマは駄作なのだ。つまり、本作のそもそもの前提に、主演女優やアナウンサーが語るように、主婦が日頃の憂さ晴らしをしたに過ぎない駄作を仕事だから演じざるをえないという事情がある。それが、ノブ子の不満による脚本改変から、各々の不満が爆発していくのである。
このあたりの事情が飲み込めないと、本作は乗れないのだろう。しかし、さすがに改変に次ぐ改変で、中盤からは脚本を書いた主婦が可哀想なのである。だが、ここでこの作品がうまいのは、主婦が可哀想の局地に立ったとき、明かに主婦に非がある行動をさせるのである。これにより、関係がイーブンになる。また、どんな状況でも作品を完成させるプロの意識を、その主婦と制作側の対立の中で、ちゃんと出すのだ。


(※)特に本作は、脚本の改変という作者自身の経験も踏まえたストーリーとなっており、三谷さん自身の感情がのって作品をよりエキサイティングなものにしているように感じる。