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ヘアスプレーのNMのレビュー・感想・評価

ヘアスプレー(2007年製作の映画)
3.9
子どもが観ても大人が観ても、それぞれに楽しめる作品。理屈抜きに楽しい歌と深いメッセージとが交互に畳み掛ける。

60年代。ボルティモアのティーンの間ではある番組が大人気。ヘアスプレー会社がスポンサーしている地元の番組。歌とダンス、そして流行りのヘアスタイル。
ヒロインのトレイシーもこの番組が大好きで、いつかスターになることを夢見ているが、それには問題が山積……。


どうしても画面真ん中のトレイシーにばかり視線が集中するが、何度か観るうちにそれ以外に目が行くようになり、ピントすら合わせない通行人やセットまで完璧に世界観を作り上げていることに気付く。街を行く車は全て豪華なクラシックカー。全体の色調が完璧なバランス。どれだけの手間と費用なのか。

何度も観るうち、人気の数曲以外の他の曲の良さも分かってきた。当たり前だがよく聴くと捨て曲がない。

改めて驚くのは、歌やダンスで目立たないが実は初めからずっと酷い差別の描写が散りばめられていること。とても重い内容が、歌とダンスにさらっと語られており、それらは一瞬なのだが何度も繰り返されるため段々メッセージが届いてくる。前半はとくに、登場人物たちはまるで目に入っていないかのようにそれらをスルーしている。
例えばコーニー・コリンズ ショーのオープニングテーマは、「素敵な”白人”の子ども」という歌詞がわざわざ強調されて歌われており、「Negro day!」の箇所はみんな笑顔で万歳していて観ているほうがぎょっとする。しかしそれを見ているトレイシーたちはこの時点では特に言及しない。

ヴェルマは確かに美しく、権力もあるがそれは非常に限定的で小山の大将という感じがある。ミス・ボルティモアではなく、ミス・ボルティモアクラブ(蟹)という設定も、それほどの頂点には届いていないが自分では過剰な自信を持っている、またはそこまでの価値はないもののために取り返しのつかない不相応な取引をしてしまったような滑稽さを感じさせる。日本で言うならミス・伊勢海老とかそういうもの(例え)。蟹の歌にしてはやたら壮大過ぎるし最後の「蟹!蟹!蟹!」という掛け声も可笑しみがある。ミュージカルの演出によってはCLUBではなくCLABのほうと分かりやすいよう手で蟹のジェスチャーをするものも多い。

60年代、人種のみならず様々な制約が根強い。ママ・エドナは、9年も外出していなかったと語る。それが特におかしくもない時代だったのか、実際に広場恐怖症の設定なのかは定かではない。
街で妊婦たちがバーでカクテルを飲むのを見て驚いている。
ヘアスプレーというのは、女性が自由で新しいファッションを楽しむようになった象徴の一つでもある。黒人だろうとビッグサイズだろうと関係なくそれぞれに。
『Lady’s choice』という曲も、男性から声をかけるだけでなく女性も相手を選ぶ時代になったからこその歌のように思う。

トレイシーはスクールカーストの下方にいるというよりは、それらから逸脱している印象。やっかみやからかいはあまり気にしないようだ。お勉強には興味がないようだが、自分の芯がしっかりしている。
どちらかというと時代や文化に縛られているのはママ・エドナ。自分の見た目を気にし、人からの目線や言葉に傷つき、だからこそあまり外出しなくなったのかもしれない。何より娘に同じ目に遭わせたくないと思っているから、派手な行動を慎むよう諭す。
それが結局トレイシーに促されどんどん自分を解放していく。作品においてとても重要な役。

特に前半は白人と黒人の対峙が描かれているが、トレイシーたちが仲間入りしてとても楽しそうにしているので、「白人はつまらない」「ブラックこそビューティフル」「ビッグになるほど魅力が増す」等という歌詞があったところで神経質にならず、別に全員とは言っていないよな、美意識は自由であるべきだよな、などと観るほうで勝手に補足して納得できる。

前半は楽しく、後半はいよいよ前作でため込んだメッセージがはっきりと押し出されていく。

「いいの 流行はもう追わない」
それまでは番組に出ること、有名になることが夢だったトレイシーは音楽を楽しむほうが大事だと考えるようになり、過度に流行のファッションを追うのもやめる。
実はオープニングからトレイシーのズレも示唆されていたように感じる。黒人というだけで大学入学を拒否される記事が新聞に載っているが、トレイシーはそれらを全く視界に入れず浮かれた歌を歌いあげていた。
彼らと付き合うようになって初めて彼女の目が開かれた。音楽を通したからこそこの価値観に到達したとも言える。

勇敢で差別心のないトレイシーとともに過ごすことでリンクたちも外見以外の重要さに気付いていく。
リンクはもともと差別する様子は全くなく、恋人アンバーを咎めるシーンすらあった。司会者やスタッフたちも。スポンサーも商売さえできればそれで良い。

「刑務所に入れられても正しいと思うことは主張します」
デモと聞くと日本では何だか危ない、怖いというイメージがあるが、英語ではMarch、本当は彼らのようにただメッセージを伝えながら行進すること。ここでは結局騒ぎにはなってしまうが。
更にプラカードで軽く叩いただけなのに最終的にはバールで殴ったと報道される。

歌姫メイベルが静かに「神はみている」「あたしたちの過去」と歌うだけで、前半少しずつ伝えられてきたメッセージがその重さを想像させる。

ウィルバーの行いが素晴らしい。
自分は豆を食ってでもすぐに人を助けられる、彼のような人になりたい。そんな彼を尊敬できるエドナも良い人。二人はお互いを尊敬し合っていて、トレイシーのことも誇りに思っている。

親友ペニーの歌唱シーンは特に前半は少ないが、それまで大人しかった分インパクトがありもう少し聴いてみたいところ。
ずっと飴を舐めていたのは歌わなくても不自然ではなくすため、そして自分の意思を持たない子どもらしさの象徴。飴を棄てたとき、ペニーの自我が目覚める。

ペニーの母ハブリラの子育ては虐待の域。敬虔なのは良いが娘を思い通りにするために宗教を道具にするのは間違い。無理やり祈らせたり信仰ソングを聴かせても効果はない。自分の子を悪魔の子呼ばわりするとは皮肉。
ペニーはうんざり程度の表情しかしていないが、冷静に見れば相当の状況である。
信仰が全否定されているかというと別にそうではなく、メイベルがマーチで歌うのはゴスペル風でもあるし、トレイシーのオープニングも「天の声」といった表現はある。教義にとらわれて不自由になることはキリスト教の本意ではなく自由な宗教のはず。信仰のしかたがポイントだということ。

本作が、女性たちがメインであることはポイント。
メイベルにもヴェルマにも夫はいないらしく、お堅いハブリラの夫は皮肉にも服役中らしい。それらの詳細は特に語られないので、とにかくそういう設定のほうが、男性中心ですべてを夫に丸投げする文化が変化しつつある時代を描き易かっただけだろう。

はじめトレイシーたちがオーディションに来た時、特に女性陣が見下す態度だったが、最後には差別撤廃を称賛していて、トレイシーたちが少しずつ彼女たちを変えたのかと思わせる。周りの雰囲気からはじめ、やがて世論を。恐らく理屈ではなく行動と、歌とダンスで。
相手を楽しませると、その主張まで受け入れたくなるのは自然なこと。

ヴェルマたちは、頭ごなしに白人というか自分たちの権利を押し付けたため、結局周囲の白人からの支持さえも失ってしまった。
変化についていけなかった親子は居場所を失ってしまう。

フィナーレに参加できるのは正しい選択をした者のみ。大人も子どもも体重も人種も関係ない。
「ドアは少しずつ開く」。
シンデレラストーリーの服を着た社会派ドラマミュージカル。
観るたびに発見があり飽きない。

錚々たる役者陣だが、ニッキー・ブロンスキーを発掘したことがやはり最大の功績。この作品のための逸材。

メモ1
私はボルティモアと言えばこの作品という程度にしか知識がないので、2015年に黒人死亡事件があった時は驚き悲しかった。あのヘアスプレーの舞台ボルティモアで?と。てっきり自由で平等な地なのだと思い込んでしまっていたから。
この問題は60年代に解決などしておらず、いまだ脈々と続いている。2018年にはボルティモア市は市民から銃の買い取りをするなど、今も治安維持に取り組んでいる。
ややこしいのは、ボルティモア郡とボルティモア市は別だということ。
ボルティモア市はメリーランド州に属し、平均年収は高いが貧富の差が大きい。
そのボルティモア市をドーナツのように囲むのがボルティモア郡。どの州にも属さない独立都市。ボルティモア市を含めたボルティモア郡の貧困率は7%以下。つまりボルティモア市郊外のボルティモア郡には貧困者は少ない。
ボルティモア市民の黒人率はアメリカでもトップレベル。その周りのボルティモア郡は逆に白人のほうが多い。
留学している日本人の情報を見てみると、市街、郊外に住んでいる人ばかり。

メモ2
「2-4-6-8, ~~!」……掛け声の時の拍子付け。いちにーさんし、のような。
ジーナ・ロロブリジーダ……50年代から活躍したイタリアの女優。
ピーカンパイ……pecan pie。生地ピーカンナッツを練りこみ表面にも並べて敷くパイ。
ボルチモア……アメリカで最も古い都市のひとつ。昔は港町として栄えたが、貧困化を抱え人口も減った。
「象牙の塔」……tour d'ivoire(仏)。俗を離れて閉ざされた場所、状態。芸術面でそれを楽しむという良い意味、現実離れした研究や学者などの皮肉の意味でも使う。親友ペニーが家を指して呼ぶ。
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