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トガニ 幼き瞳の告発の海のレビュー・感想・評価

トガニ 幼き瞳の告発(2011年製作の映画)
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この子たちはいつか、かならず、誰かの手により「大切な子」とその頭を撫でられているはずで、そのいつかというのは、過去と未来の両方のいつかで、そんな尊く重要な何ものにも代えられないこの子たちの人生の全ての時間を、一瞬にして平気で踏み躙ることのできる人間がこの世に居ることが信じられず、それでも事実であり、加害者の一人一人をこの世から消し去るためならば、それで少しでもこの子たちの痛みがましになるのであれば、自分は迷い無く、むしろ喜んで、死刑執行のボタンを押せる。私が本作を初めて観たのは10代の頃だった。あれから観返すことはなく、今改めて再鑑賞の機会を作ったけれど、この事件については何度も調べた。ある人は、本作を「過剰に描き過ぎている、事実とは異なる」と言い学校側(加害者)を擁護したというが、光州インファ学校で起きたこの事件に関わっていた人にとって、映画及び原作本は、「事実の10分の1さえ描けていない」もので、著者は書き表しようのないことが起きたのだと、とても言葉では言えないような残酷で卑劣なことが起きていたのだと、この事件のことを語り、それを読んで初めて涙が出た。原作本が発行されたのは2009年、主演のコン・ユ自らが声を上げて映画化され公開されたのは2011年(日本では本の発行も映画の公開も2012年、遅すぎる、あまりにも)、実際に児童たちが虐待を受け、隠蔽が続けられていたのは2000年から2005年の4、5年間、しかし実際にはもっともっと前からそこで発生していた問題だったそうだ。自分が大人になった今、子どもをどんな方法であっても虐待できる大人がこの世に居ることを、以前よりもずっとずっと地獄で、悪夢で、絶望だと思うようになった。教師により自殺に追い込まれる生徒児童、幼児を虐待したあと殺して遺体を捨てる誘拐犯、腐敗しきったあらゆる欲望や劣等感の捌け口に自分より小さくて力の弱い子どもを選ぶ大人、それに蓋を出来る社会、それを助長するかのように、ただただ非力で抵抗できない者として描かれ、時には心さえ持たない人形のように扱われている、少女や少年というキャラクターを消費するフィクション、それをこんなに簡単に幾らでも見られてしまう時代。先日、猫のサブスクという文言が話題になった。その内容は、自分には、天地がひっくり返っても思い付かないようなものだった。それを真面目に考え付き、稼げるんじゃないかやってみようぜと思う人間が居ることが信じられなかった。保護猫譲渡会に、優しい顔して現れた人間に、引き取られ、虐待され殺された猫たちが居ることを、知らないのかと、なぜ知らずに生きていけるんだよなぜ知ろうとせずに動物を扱った商売をしようと思えるんだよと憤った、つらかった、とてもつらかった。なぜ、他者の傷に、こんなに鈍感でいられるのか、命を、軽視できるのか本当にわからない。生きているものたちを、何とも思わずに日々過ごすことに、慣れることができるのかわからない。頭を撫でられ、大切に抱きしめられ、数えきれないほど笑ったり、美味しいものを食べたり、夢をかなえたり、誰かを愛したり、愛されたりしながら生きていけるいのちが、そうじゃない道をたどらされる。それはなぜだろうか。護る手の足りなさだろうか。侵す手の多さだろうか。どちらでもない手の多さだろうか。わたしたちにとって、他者のいのちというのは、そんなに軽いものですか。金の方が、名誉の方が、快楽や自由や優位に立つことの方が、重いんですか、ひとの苦痛よりも。もしも自分にある特権が、それを持たぬものを踏み躙るためにあるというのならば、私はそれを今すぐに手放したい、要らないそんなもの。戦うことが、どんなに難しいことかはわかっている、それは無防備な体で、車が物凄いスピードで行き交う道路の真ん中に立つのと同じだ。轢かれて死ぬかもしれない。自分を避けた車が別の車にぶつかりそれによって何人を殺すかもわからない。しかし、何故それをするのか。それをする他、道はないからだ。それをしなければ、死んだも同然だからだ。何故、生きているんだろうかこんなに最悪な世界でと、時々、いや、本当は毎日のように思っています、そういった悲観を手放して生きていくことは、一生できないと思う。わたしは、わたし自身にも、誰かにも、世界にも、戦ってくれとか、声を上げてくれとか、そんなことを言える人間ではないけれど、ただ、いつも、怒りを忘れないでくれと祈っている。怒りを、忘れたらもう終わりなんだ、そのために心身で疲れ果てることができなくなったら、もうダメなんだ、何も感じなくなって、鈍った心で、たとえ幸せだと思えても、普通に生きて死んでいけても、それはあなたの不幸と、誰かの不幸の上に成り立っているものでしかなくて、あなたの上には、酷い手のひらが重くのしかかっているはずなんだ。傷つけられていることに、どうか鈍くならないでほしい。より良い世界は、小さな気づきから生まれるはずなんだ。どうか、それくらい平気だろとかもっと気楽に生きなよとかいつか終わることだよとかそういった、達観を装った、ひとの苦しみと痛みを軽視した言葉で、悲鳴をふさがないでくれ。私たちは皆、怒っていい。喚き散らしていいのだ、泣いていいのだ。わたしはわたしに言いたい。しあわせになれないのなら、苦しいのなら、悲しいのなら、こんな世界に生きている意味も価値もないと思うのなら、怒って生きていきなさい、何もできないと泣きながら、何かをするために生きていくしかないんだ
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