フィネシル

征服者のフィネシルのレビュー・感想・評価

征服者(1955年製作の映画)
1.0
 大前提として、キャスティングには不満しかない。別段歴史的考証に忠実に沿わないキャスティングすべてがかならずしも悪いわけではない。BBCが製作したシェイクスピア劇のアダプテーション『ホロウ・クラウン』では史実では東欧出身のフランス王妃をアフリカ系の女優が演じていたが、しかし優れた演技によって彼女がその役を演じることの理由を生み出していた。そもそもアフリカ系の俳優を、これから植民地主義に乗り出そうとする時代の西欧の君主に起用するということに、政治的な意味合いもあるだろう。そのことの賛否はむろんあろうが、意味のあることだ。
 しかし、この映画でアジア人のチンギス=ハンにジョン・ウェイン、その王妃にスーザン・ヘイワードを使うことに何も意味は見出せない。従者や兵士といった他の役所はアジア人であったりメキシコ系であったりするので、単純に英雄性や美しさを強調するために、さながら主役とヒロインの眼をおそろしく誇大して描き顎を異常に細めるような記号的操作として、アジア系やラテン系の中に白人を放りこんでみせたという悪意しかないキャスティング。

 このことにとりあえず目をつむってみたとしても、緊張感を生むのも、物語を作るのも、画を撮るのも、緊張感の欠落を補うために音楽とエロと暴力を使ってみるのも、ほとんどの役者の演技も、全てが他に類を見ないレベルで下手だが、何を差し置いても予算の使い方が下手すぎる。
 大富豪ハワード・ヒューズがバックについたはいいが、富豪のためにいい映画を撮るのも癪だとでも言いたげに、使うべきところでそこらへんのインディー映画もしないような予算の使い惜しみをし、必要でないところで最大限予算を使っている。
 それが象徴されているのが、ラストの合戦のシーン。数十騎単位で騎兵を激しくぶつけてみたはいいものの、役者の演技のやる気がなさすぎて、二日酔いの翌朝馬に乗って踊ると言うシバリを課せられたダンスパーティーとでもいうほかはないような腑抜けぶり。さながら、親戚の家か何かに泊まったとき「うちの息子が出ているから」と運動会の騎馬戦かなにかをハンディで撮ってブレブレなホームビデオをみるかのような数分が続いた挙げ句の果てにジョン・ウェイン演じるテムジンが、合戦の最初から丘の上にいた宿敵を「あ!あそこにいるぞ!」と白々しく「発見」。宿敵はあっさりテムジンに殺されるが、普通の映画なら確実にNGが出るような死に方。この当時アメリカではフィルムの物価の天文学的インフレーションかなにかで馬百頭使うのがほんの十数秒のフィルムを取り直すよりも安かったりしたんでしょうか。

スーザン・ヘイワードとテムジンの弟を演じるペドロ・アルメンダリスは、割と真剣にやろうとしているが、そもそも脚本の段階でヘイワードの演じる役の造形がハチャメチャなのでいかんせんどうしようもない。

 監督、音楽家、カメラマン、脚本家、役者、全員が家族を人質に取られて、これまでにない失敗作を作れと脅迫されたか、あるいはこの当時いちおう共産陣営に属していたモンゴルという国を侮辱することによって、かつてアカの巣窟とマッカーシーにかけられた嫌疑を晴らし、愛国心を証明してみましょう!と熱意を燃やし製作陣が一丸となったのか、とにかく最初から最後まで弛緩しっぱなし。ジョン・ウェインの英語はもともと間延びしたところがあるが、それがこの映画では増幅され耐え難いものとなっています。