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東京物語のKEKEKEのレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
5.0
- 初小津
- モノクロ作品ということで身構えていたのだけど、意外にも思い描いていた戦後というよりかは、そのイメージと現在のちょうど中間の位置にあたる家族観を見ている感じでむしろフレッシュな印象すら受けた
- せっかくの名作できるだけコンディションのいいときに観ようとゲージを貯めていたかいあり流石に面白かった
- 東京に発つ直前の会話「ないことないわ、ようさがしてみ→あった(ありましたか)あった、あった」のリズムがとても愛おしく、この時点で引き込まれていた

- これが小津のローアングルと言うやつか、とフォードの地平線についての逸話も思い出しながら観ていたのだけど、確かにここまで作り手の哲学が徹底されていると構図や撮影のはなしをせずにはいられなくなってしまう
- 例えばウェスアンダーソンのように多動的な映像で見せる非現実的なシンメトリー構図は人類やそれらが築き上げた文化の優位性、自然を超克した歴史の営みみたいなものを強く想起させるが、小津のみせるシンメトリーはその対局をなすようで、土地の上に蠢く弱い動物である人間そのものを映し出す額縁として機能していた
- そう感じた理由は構造物が尽く「枠」で構成されていることを彼の映像はいやというほど見せつけてくるからじゃないかと思う
- 家の柱、障子、窓枠、箪笥、手すり、鏡、畳、ドア、あらゆる構造が四角形やそれらを組み合わせた立方体であり、徹底的なシンメトリーの定点構図はそうして直線で構成された人工物を半ば不自然なほどに浮き上がらせる
- 枠の重なりと遠近法、それらをつなげるモンタージュが一寸の狂いもなく構築されていると、むしろその枠組を通した人間や自然の存在が強調され、人類が自然に対する権威ではなく対等な関係に再配置されるのだと感動した
- そのモンタージュの切り取りかたも、始点と終点を若干ずらし、また中間に起こる出来事を意図的に排除することによって、映画のサイズや時間以上の奥行きを演繹的に表現している
- 原爆を受けた広島と、空襲と大震災により焼土となった東京の往復を物語の舞台とすることによって、当時の人間がまっさらな大地の上に自分たちと自然との境界を作り、その上に枠組みを建てることによって死を克服しようとした歴史が、流血の土地そのものに刻まれている事実を強く印象づけられる

- 戦後から高度経済成長の狭間で敗戦と大量の死を経てなお喪失を克服しつつある人々が、しかし未だ完全には癒えない傷口を隠しきれずにおり、再建の時代の象徴たる都市東京がそんな人間たちの代弁者であるかのように語るさまを家族という視点で切り取っている
- 尾道の自然と東京の喧騒、排気ガス、汽車、着物とスラックス、旧来の価値観と変化する家族観、その過渡期を生きる親世代の哀愁が当時の社会のあり様を浮かび上がらせ、その時間軸がけして死で区切られるものではないという冷酷な事実を叩きつける

- 母親役の東山千栄子が時折目の奥にのぞかせる寂しさの表現と、大黒柱というロールを脱したあとの所在無げな父親を演じる笠智衆の洗練された演技が、当時の空気を克明に記録していてすごい
- 原節子の洗濯物を畳む手つきに象徴されるように、パンチラインのような派手さを狙わずに、粛々と手仕事を積み上げる、本当に信頼のおけるつくりかたがされている作品だと思った

- 私たちは幸せなほうだ、と夫を残して死んでいく母親と、喪服を抱えて帰省「しなければならない」兄弟たち、その対比で描かれる情に厚い他人の義娘が、それぞれ何かの対立軸としてではなく誠実な生活者として絶妙に表現されていた
- 悲しいかな私の家族観としても、この兄弟たちに近いものがあると感じ、同時にそれが旧態依然とした日本的価値観の延長線上にあることを知った
- 身の周りの人間が生と死を一方向に進む限り、生活が誰かの死を前提に営まれることは至極当然のことに思える
- しかし人の死を予想して行動することはなにか道徳的によくないことで、それは一般的に薄情と呼ばれるのが実際の社会で、そういった人間と死との距離感を正確に描いた作品でもあると感じた
- この映画は映像作品でしかなし得ないやりかたで、理論や道徳をこえた喪失を描くことに成功している

- 絶対にそうは思わせない映像のはずなのだけど(なんなら現代のオーバーツーリズムの問題に引き寄せられる描写でもある)、何故か親を熱海に連れていきたいとおもってしまった(熱海はそれでも素敵なので)
- 胸より下からのアングルで人物を映すもうひとつの効果として、その人物の目線が強調されるなと思った
- 悪は存在しないのインタビューで主演の大美賀さんが、「うどん屋で二対一の会話をしているときの巧の視線が気になったのだがあれはどこを見ていたのか」と聞かれて「カメラですね(笑)」と答えていたことを思い出す
- でもこうして映画の視線に注目すると、演者がカメラを直視していることはほとんどなく、だいたい「そこにいるはずの人」を見ていることがわかる
- 先程のモンタージュの手法もそうだが、映画とはここまで観客に演繹させ、フィクションを頭の中に発生させる芸術であったのかと、あらゆる無駄な演出が削ぎ落とされているからこそ実感を伴って感じられる作品で、よい意味で教則てきな映画でもあるなと感じた
- 小津のアングルが日本的とされているのは、何か八百万的、もののけ的な視線を映像に感じるからじゃないかとふと思った
- スマホの如き団扇、この時代のスラックスの丈と太さめちゃくちゃかわいい
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